新井城跡 登城日:(2003.03.23) 所在地: 三浦市小網代、東大地震研究所 |
歴史 |
三浦一族滅亡の地、新井城は面積約128ヘクタールの天嶮をそのまま利用した自然の要害でした。 すなわち、相模湾に突出したこの小半島は、小網代湾と、油壺湾にはさまれて、三方がいずれも海で、しかも切り立った断崖であり、陸地に通ずる路は、北方約3キロメートルの大手の引橋で、この橋を切って落とせばどこからも攻め込まれないようになっていました。 引橋は後に地名になりましたが、ここで北条軍は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。 現在は、関東大地震による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては大軍をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で三年間もちこたえたのですから、三浦一族の執念もさることながら、城としても、すぐれた構えであったのでしょう。 いずれにしても、室町期の居館としての新井城の名残りは、本丸を中心にめぐらされている空堀に往時を偲ぶことが出来ます。 『新井城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
新井城は油壺マリンパークへいく手前の細い遊歩道へ左折し、東大地震研究所の敷地内にありました。海に面した複雑な地形を横目に足元を慎重に進んでいきますと右側に大きな土塁と空堀がみえます。なんとも見事なものでそれらがかなり奥にも続いているように見えます。が、残念ながら東大地震研究所の敷地内であるとして、立ち入り禁止です。 なんとも無念ですが、仕方ないです。しばらく海沿いの道を散策しつつかつての攻防に思いを馳せることにしました。北条早雲の大軍を相手に少数でありながら存分に戦った三浦道寸・義意父子はすさまじい活躍をしたのでしょうね。そんな彼らの墓が付近にありますので、散策ついでに寄るのもいいでしょう。 文字通り血の海と化した戦場が、油のように流れた血から後の地名、油壺になったんだとか・・・一人で散策するにはちょっと怖くなる、そんな城跡でした。
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