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小田原城跡登城日:(2002.07.21)所在地: 小田原市城内、小田原城址公園 |
歴史 |
戦国時代北条氏の本城である小田原城は、当時としては全国屈指の雄大な規模を誇っていたことで知られています。 豊臣秀吉が天正十八年(1590)に小田原城を攻めた時には、小田原城本体のさらに外側に全周約9キロメートルもある大外郭を設けて城下町をも包み込み、城と城下町の守りを固めて秀吉を迎え撃ちました。これは「総構」などと呼ばれています。 江戸時代になると、小田原城は範囲を縮小され、天守がそびえる石垣の城として生まれ変わりました。 ここは御用米曲輪といい、江戸時代には江戸城に送る御用米を貯える米蔵が建てられていました。御用米曲輪の周囲は石垣ではなく土塁で囲まれており、北条氏時代の姿を残している部分と考えられています。 ◆本丸 元禄時代ごろの御殿の絵図によると、この本丸は、周囲が高い石垣と塀や櫓と呼ばれる建物で囲まれており、天守閣のほか、中心には将軍家宿泊専用の立派な本丸御殿がありました。御殿は元禄十六年(1703)の大地震で壊れた後、再建されませんでしたが、現在の象舎と天守閣の間にあり、畳敷だけでも六七〇畳ほどあったことが分かります。 また本丸の出入口には「常盤木門」と「鉄門」と呼ばれる二つの門がありました。常盤木門は東にあり、大手に当たる枡形門で、現在復原されています。また鉄門は北にあり、御用米曲輪を通り、城外に出ることができました。 ◆小田原城のあらまし 小田原城は、今から五百年以上前の十五世紀後半、西相模一帯を支配していた大森氏の時代に、天下の険の箱根を控えた。小田原の地を根拠地としたことから、その歴史が始まったと言われています。このころの小田原城の位置は正確には分かっていませんが、県立小田原高等学校の東の高台付近と想定され、規模の小さな山城であったと考えられています。 明応四年(1495)、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が大森氏を攻め、小田原城を手に入れてから、関東の覇者、北条氏の城となり、天正十八年(1590)、豊臣秀吉と対峙した小田原合戦の時点では、周囲の山の中腹や海岸線などに、総延長九キロメートルに及ぶ土塁や空堀を巡らし、町屋や農地までも城下に取り込んだ壮大な城構(総構)が築かれ、日本最大の中世城郭に発展しました。この時代に造られた土塁や空堀は現在でも、鉄道を挟んだ西側の丘陵地や、市内の各所に残されており、天守閣裏手の遊園地付近でも観察することができますい。 江戸時代の小田原城は、江戸城の西の守りとして重視され、徳川氏の重臣である大久保氏や稲葉氏が城主となり、北条氏時代の巨城を「お留山」等によりそのまま管理しながら、現在の本丸や二の丸、その周辺の三の丸の一帯が近世城郭に改造され、高い石垣や白亜の城壁を持つ姿に生まれ変わりました。この工事は、主に、寛永九年(1632)から貞享二年(1685)まで城主であった稲葉氏の時代に、幕府からの援助を受けて行われました。それ以後、江戸時代初期に城主であった大久保氏が再び城主になりましたが、この時期に整えられた小田原城が、震災による建替えや修復を繰り返しながら、幕末まで引き継がれました。 『小田原城跡案内板』より
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資料
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私見 |
関東にやってきて、訪問したかった城の1つでした小田原城にようやく来ることができました。JR小田原駅から約10分ほどで城址公園内にたどり着くことができました。北入り口から公園に踏み込むとそのまま本丸に到着しました。三層四階の天守が絶好の天気によく映えますね。今回は天守の中には入りませんでしたので分かりませんが、この本丸内だけでも十分にいろいろ楽しむことができてしまいます。 まずは甲冑や着物を着付けてくれるサービスです。ここで天守閣をバックに記念撮影すれば気分はすっかり北条、誰だろ(笑)。 そして南に視線をやるとなんと!象がいました。そうです。ここは城内に動物園がある城跡なのです。全国に似たような城はいくつかありますが、象がいるところは初めてでした。「象がただで見れるのか!」私の小田原城の一番の印象がこの象のウメコになってしまいました。 しばし象がのし歩く様に心を奪われてしまっていましたが、我にかえって二の丸へと歩みを進めます。常盤木門をくぐり、銅門、隅櫓など撮影スポットが随所にあります。が、こうした近年に手を入れられた復原ものばかりじゃなく、当時の遺構であろう、堀跡や土塁なども残されていて、すっかり満腹状態ですね。
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