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高知城

高知城跡


登城日:(1999.07.25→2008.07.27)
所在地: 高知市丸ノ内1丁目、高知公園
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
◆高知城の沿革
非常に広い高知城杉の段 追手門と高知城天守  高知城は、もと大高坂城といい、南北朝時代に大高坂松王丸が南朝に応じ、これに拠って北朝方と戦ったと伝えられる。
 戦国時代、長宗我部元親は土佐一国を平定、さらに兵を進めて四国を併呑し、天正十六年(1588)ここに築城した。
 しかし城下に水難が多いため、数年を経ず浦戸に移った。
 山内一豊は、関ヶ原の戦功により、遠州掛川(六万石)から土佐二十四万石に封ぜられ、慶長六年(1601)九月、百々越前守を築城奉行に任じて工を起し、二年後、本丸を完成した。享保十二年(1727)越前町より出火し、全城大半類焼、十四年再建に着手。慶長別建の姿にならって施工し、二十四年を経て宝暦三年(1753)十一月施工して、現在に至っている。
 明治維新後、二の丸、三の丸の建造物を破壊し、本丸と追手門のみを残して、城域を整理し、花木を植え、公園とした。
 戦後は各建造物の修理に着手。追手門は昭和二十六年に、天守閣は同三十年に、その他の諸建造物は三十四年三月に、それぞれ改修施工した。
◆石樋(いしどい)
排水対策用の石樋  高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。
 石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。
 このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものである。
 石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16ヵ所確認されているが、下になるほど排水量が多くなるため、この石樋が一番大きく造られている。

  山内一豊像  鐘撞堂そばの石垣  高知城天守にある降り棟鬼瓦  高知城天守と本丸御殿

『高知城 案内板』より

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資料
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私見
廊下門、東多聞の造形美 高知城天守  9年振りの高知城は予想していた以上に新鮮なものでした。朝一に訪れ、逸る気持ちを抑えつつ、写真の撮り直し(^^;。すべての石樋の位置関係をチェックしたいなとも一瞬よぎりましたが、三の丸の石垣復元工事を見ながらアイスクリン。はい、軟弱モノです。
 二の丸には珍しいものがありました。ちょうどTV番組のロケが行われたようで、スタッフもセットもそのまんまでした。ま、城には関係ないのでどうでもいいのですが、ちょうど二の丸からの撮影が難しくなってしまってますよ。
 廊下門をくぐって、本丸へ。ここから見上げる天守はいろんなところで目にするお決まりの構図ですね。御殿の中には冷たいタオルと扇風機が用意されているので暑いこの日には非常にありがたいです。天守から出たあとは黒鉄門をくぐって鉄門跡へと回りこむのですが、石垣が高くて結構いいビュースポットですねぇ。
 熱い夏は現存天守の城。特にこの高知城はイイですね。
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