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都之城

都之城跡


登城日:(2009.03.19)
所在地: 都城市都島町、城山公園
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
昭和49年度の空中写真  都之城は、都城島津氏(北郷氏)歴代の居城であった。永和元年(1375)二代義久が築城し、元和元年(1615)の一国一城令まで、240年の間、本城となっていたところであり、本市地名発祥のもととなった由緒あるところである。
 城の主郭部(本丸)については、昭和63年から平成2年にかけて発掘調査を実施し、当時の様子が明らかとなった。その中心となる建物(館)は、北側(現歴史資料館)に位置していたと思われ、比較的大きな遺構が見つかっている。

都之城本丸跡に建つ歴史資料館 ◆都之城本丸虎口跡
 この虎口は都之城古絵図(都城島津家所蔵)に描かれた本丸西側にある二つの虎口(a・b)のうちの1つ(a)である(現在、歴史資料館正面入口の階段付近)。
 虎口とは城郭の出入口を虎の口に例えたもので、敵兵の攻撃に対する防御や城兵の突撃に際し工夫を凝らして構築されている。
 発掘調査で発見された本丸東側の虎口が「L」字や「T」字路を呈することによって場内を直接見通せないような仕組みになっていたのに対し、この虎口は直線的な長いアプローチで場内に入るのが特徴である。本丸の重要な出入口であると考えられる。
◆門跡
 この二つのマウンド直下の位置に、直径2.4m、短径1.2mの楕円形の柱穴2基が1.6mの間隔で並んで発掘された。曲輪の西端に位置する門跡と考えられる。(15世紀代)
◆建物跡
 土盛した部分に柱穴が約2m間隔にあり、2間x2間のほぼ正方形の建物跡が見つかっている。曲輪の南端に位置することから、物見やぐら(櫓)とも考えられる。(15世紀代)
◆塀跡
 土盛した部分に東西・南北方向の溝(幅約0.6m、深さ約0.8m)が見つかっており、その底に等間隔(約1.4m)に礎石がおかれていたことから、布掘り工法の塀が作られていたものと推定される。東西方向のものについては総延長50mにもおよび、一ヶ所に設けられた入り口は「食い違い」になっている。溝の周辺から瓦が見つかっていることから、瓦葺きの可能性がある。瓦の文様は軒丸瓦が「五七桐」文で、軒平瓦が唐草文である。(16世紀末)

『都之城跡案内板』より

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資料
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私見
本丸と西城との間の堀跡  都之城は、そのまんま(いやたまたま言った表現ですよ)都城市 の名称の元になったお城です。ふらっと立ち寄ったという程度で全然事前に調べていなかったのですが、最初の印象以上に面白いお城でした。大淀川越しに見えるお城風な建物が気になっていたのですが、それが城跡に建つ歴史資料館だったんですね。
 駐車場、トイレが完備された城山公園ですのであまり期待せずに(^^;、登城していきます。すぐに櫓門がありましたが模擬なのでしょうか、あとで『都城の文化財』に載っている縄張り図を見ると大手と書かれた字名が逆にあるんですが・・まぁいいでしょう。
 城山公園と大きく書かれた看板の先には左右に高くそびえる台地があり、中央の通路はかつては堀跡だったのでしょう。本丸である歴史資料館へは斜めに登るスロープもあるのですが立入禁止なので、右側にある狭野神社、いや西城跡を通らせてから橋を渡るルートは城跡らしい堅牢ぶりを残したいということなんですかね。(^^;
都之城本丸に残る門跡  すぐ北には日豊線の線路が走っていますが、かつてはここらを中心に11もの郭が広がっていた大城郭だったのですね。国土交通省の昭和49年の空中写真を見るとまだその時の規模がわかるようになっています。最大時で総面積25ヘクタールもの城域は圧巻です。それぞれの曲輪が独立しているのは南九州でよくみられるタイプのお城ですね。
 本丸跡にはいくつか城跡を感じさせるものが残されています。門跡、塀跡、建物跡、そして城郭風な歴史資料館。またここからは周囲を見渡すことができますのであまり比高のない城跡ではありますが、かなりいい立地条件にあるんだということを感じることができますよ。
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