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飫肥城跡登城日:(2009.03.19) 所在地: 日南市飫肥10丁目 |
歴史 |
◆大手門 飫肥城大手門は明治時代初めに取り壊されたが、昭和五十三年(1978)に飫肥城復元事業の第二期工事として歴史資料館とともに復元建設された。 復元に際しては、当時の城郭研究の第一人者であった故藤岡通夫博士に設計、監修を依頼し国内に現存する大手門を参考に在来工法で行った。 復元された大手門は木造渡櫓二階建てで、高さ十二、三メートルを計る。建築材は帯営林署の三ッ岩学術参考保護林から樹齢百年の飫肥杉四本の提供を受けた。 なお、復元工事中に、礎石に刻まれた正徳三年(1713)銘の碑文が発見され、大手門の内側に保存されている。 飫肥城は、重要伝統的建造物群保存地区内であるとともに、日南市指定文化財である。 ◆飫肥城旧本丸 飫肥城は東西約750メートル、南北約500メートルの城域に大小十三の曲輪と犬馬場などからなる広大な城である。各曲輪はシラス大地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭において特徴的な形態である。 戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、天正十五年(1587)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東氏の居城となった。 城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。このうち、元禄六年(1693)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは旧本丸が藩主の御殿であった。 旧本丸は寛文二年(1662)、延宝八年(1680)、貞享元年(1686)の三度の大きな地震で地割れが発生し、移転することとなった。 ◆松尾の丸 飫肥城復元事業により、昭和五十四年(1979)に、江戸時代初期の書院造りの御殿として、在来工法を使用して建設された。建物は延床面積約八百平方メートルで、御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など二十室以上の部屋がある。涼櫓には、豊臣秀吉が京都の聚楽第で使用したと伝えられる湯殿と同じものを復元している。建物の設計、監修は豊後岡城や京都二条城を参考に故藤岡通夫博士が行った。 本事業では多くの日南市民や本市出身者の寄付とともに、振興会(現日本財団)から多額の助成を受けた。 ◆飫肥城 飫肥城は古くは「飫肥院」の跡とも云われているが、何時頃創建されたかは明らかでない。長録二年(1458)島津の族将「新納忠続」を志布志城から飫肥城に移し、伊東方の押へにしているのでそれ以前の築城と考えられている。文明十六年(1484)伊東祐国(六代佐土原城主)が飫肥城攻防初戦をはじめてから、天正十五年(1587)伊東祐兵(十九代飫肥藩初代)が豊臣秀吉の九州征討の功により朱印によって飫肥城に入城するまで約百年の我が国に於ける最長攻防戦が行われたのである。以来、約300年伊東藩の居城であった。 『飫肥城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
飫肥城の周辺は重要伝統的建造物群保存地区となっています。城下町の石垣や佇まいが実に味わいある様子を今に残してくれていますね。 まず目に入ってくる大手門は昭和五十三年に復元されたものですが、当時のものを丁寧に復元されようとしたものですので美しいです。手前を左右に延びる堀跡の自然に崩れたような堀壁も歴史を感じさせてくれます。 大手門をくぐると枡形の石垣に圧倒されながら左に折れ石段をあがります。するとすぐに正面に石垣と白塀に視界をさえぎられ、左右へ曲げられてしまいます。迷わず左へ進路をとります。すると今度は幅広の石段にびっくり。段差はほとんどないお年寄りに優しい構造ですが、ずしりと来る威圧を感じます。 何度も曲げられつつようやく広い場所に出ました。目の前は小学校の校庭ですよ。ここ飫肥城はその城域の中に小学校と中学校をもつお城なんですね。左手には松尾の丸があり、ここもまた江戸時代のものを細かく復元されたものとなっています。有料だったので入りませんでしたが(^^;、建物の周囲を散策するのも有料なのですね。玄関くらいしか見ていませんが千鳥破風と式台のついたもので、かつては城主以外の利用が禁止されていたというのですからすごいですね。 そして旧本丸跡へと向かいます。後に下へと移されたようですが、はじめは奥の最高所にある台地上に本丸がありました。斜面に植えられた桜が少しだけ花を咲かせていて、いい季節に来られたなと実感です。 旧本丸跡は石面のよく整った石垣で守られていますが、現在は杉の木が林立してしまっています。この杉こそ飫肥杉と言い、大手門や松尾の丸を復元させた際に使われたものなんですね。本丸の中に大きな切り石が立てられたままになっていますが、これはなんの名残なんでしょう。本丸の北側は意外と比高差があったことに驚かされます。 城を出ると、改めて城下町を散策しました。ここはレンタサイクルもありますので、軽く一回りしてくるのにも簡単ですね。鯉が水路に飼われていて、津和野の町並みを思い出されます。知覧の武家屋敷のところもそうですね。昔はそんなことしてなかったと思うのですが、なんで鯉を飼うんでしょうね。最後に飫肥といえば「おび天」です。大手門そばのお店でいただきましたが、まぁ想像通りというところでしょうか。それよりも帰りに気づいたあちこちに「厚焼き卵」の看板を掲げたお店があること!。調べてみると卵焼きも飫肥の名物の1つだったんですね。お菓子のように甘くてフワフワの卵焼きだそうです。ううう・・・あのとき車を停めて買いに行っていればよかった。残念。
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