福島城跡 登城日:(2003.05.24) 所在地: 上越市港町2丁目、古城小学校 |
歴史 |
福島城は、慶長十二年(1607)に完成され、同十九年に廃城となった。 わずか七年間の存在でしかなかったが、室町時代から江戸時代に移る当時の築城形式をしめす典型的な大城郭である。その間に城主は堀忠俊・松平忠輝の二代にわたったが、いずれも一国一城の越後太守であった。 慶長八年、徳川家康が江戸幕府を開いてから、天下の諸侯は、春日山城のような山城の必要がなくなり、堀氏も福島城へ移ったのである。 慶長十五年、堀氏が改易となり、徳川家康が我が子、忠輝を信州、川中島から移し七十五万石の福島城主とした。しかし、忠輝も四年後、福島城を廃し高田へ新城を築いて移ってしまった。城を移した理由は明らかでないが、毎年、雨期になれば関川、保倉川が氾濫するからだというまことに短命な城であったが、図によって日本海、関川、保倉川の二河の地理を考えたその規模の大きさを、かつての野面積の石を用いた左の碑壇の石垣を見ることによって、豪壮な城であったことを知ってほしい。 『福島城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
福島城は、古城小学校が建っているあたりに大城郭として存在していました。小学校の正門を通り、左側に城址碑と案内板があるのですが(あっさり書いたけど小学校ですので、十分な配慮をもってね)、縄張り図も載せられています。日本海や関川、保倉川、小町川など実に見事に堀として活用しているのがよく分かる立派な城構えです。あっさりと七年で廃城となってしまったのは惜しまれます。一説には忠輝が「波がうるさくって眠れないぞ」と言ったとか・・(^^; でもまぁこの福島城の次に移った高田城の築城には上杉、前田ら有力外様大名に幕府の命で普請させてますので、そういった勢力の財力を削らんとする狙いもあったのでしょうかねぇ。 しかし今となっては遺構なんて全然見当たりません。一応石垣として利用されていた巨石があるだけです。
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