高田城跡 登城日:(2003.05.24) 所在地: 上越市本城町 |
歴史 |
◆本丸跡 高田城は慶長19年(1614)、高田の菩提が原の地を主郭に徳川家康の六男松平忠輝が築城した75万石の大規模な近世城郭であった。 本丸は内堀(薬研堀)と塁に囲まれ、現状では堀幅40〜50m、平均水深5m程あり、塁は高さ10m前後で総長約1000m、石を用いず2ヶ所の内枡形門と1ヶ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁である。 現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、この中に城主の御殿や多くの建物が存在していた。 天守閣を造らず、塁上には南西隅の三重矢倉を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多門矢倉2棟、矢倉台1ヶ所、御茶屋台1ヶ所などが設けられていた。 この高田城も、寛文五年(1665)の高田地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1847)及び享和二年(1802)の火災等にあい、その都度規模が縮小されたが、明治三年の火災によって再び焼失し、以後再建されなかった。 高田城は、慶長十九年から8家18代の城主が交替し257年間続いただ明治四年にその幕を閉じた。 明治四十一年、第13師団入城の際に土塁の切りくずし等で城跡は変形したが、基本的な原形は保存されており、新潟県の史跡に指定されている。 ◆極楽橋 極楽橋は、徳川家康の六男松平忠輝が慶長十九年(1614)、普請総裁伊達正宗の指揮によって高田城が築城された際、二の丸から本丸に通じる、内堀を渡る木橋として設けられたものです。 明治四十一年(1908)、陸軍第13師団が入城の際、土塁を切り開き、埋め立てて陸続きにしました。 文化財発掘調査により、橋の位置を確認し、上越市発足30周年及び高田公園開園50周年を記念して復元しました。 【極楽橋復元の概要】 橋長38.4m 幅員5.46m 7径間 ヒバ造りの木造橋 ◆三重櫓 高田城三重櫓は、本丸南西隅の土塁上に構築され、当時は「御三階櫓」と呼ばれて天守閣にかわる城の象徴になっていたが、廃城後、明治19年ごろ取り壊された。 平成5年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を十分ふまえて再建されたものである。 内容は三層三階で、東西5間(9.1m)、南北6間(10.9m)を基底とし、高さ15m程で外観は御殿風造りを基調としている。屋根は1層、3層が入母屋、2層が寄棟形式で、1層、3層に切妻屋根の出張りを付けている。 1階・2階は展示室で、3階は展望室nなっている。櫓の東側に付随して50mの塀も同時に再建された。 『高田城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
美しい水面を見せる水堀と、その先に見える復元御三階櫓。真新しいにおいがしてきそうなほどきれいな極楽橋。など高田城は最近整備された新鮮さが残っている印象を受けます。 極楽橋を渡った正面にはこんもりと土が盛られた形で本丸跡を示す碑が建てられています。実に寂しげですね。御三階櫓だけが高田城であるかのような状態なのかなぁと・・。周囲には上越教育大付属中学校や、厚生南会館ほか数多くの建物が立ち並びかつての城域が侵食されてしまっています。御三階櫓の美しい姿と水堀だけでも私は十分ですけどね。
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