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浅尾陣屋跡
登城日:(2004.03.14)
所在地: 総社市門田
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
元侍屋敷跡から中心部を臨む  浅尾藩主、初代蒔田広定は、慶長八年(1603)に一万余石の大名となり、この総社の地を、本拠とし、旧総社町の一部、備中国分寺のある、旧、三須村などが領地でした。
 寛永十三年(1636)第二代、定正のとき、弟の長広に領地の一部を分割したため、一万石を割って、旗本となり、以後、約230年間、旗本の時代が続きます。
 幕末の、文久三年(1862)第十二代、広孝のとき、高直しを許されて、再び一万石の大名となり、旗本時代、井手の地行所を廃して、この浅尾の地に陣屋を構築しました。
現存する土塀跡  元治元年(1864)の「蛤御門の変」において、蒔田広孝は、京都見廻役として、京都警固任にあたり、長州勢を撃退しました。
 このことが、遠因してか、慶応二年(1866)四月十二日に、長州第二騎兵隊を脱走した、立石孫一郎ら、浪士百余名により、襲撃された。
 いわゆる「倉敷浅尾騒動」により、陣屋の大部分が焼失し、その後、十分な再建もされることなく明治維新を迎えました。
 この陣屋は、低丘陵上(標高約30メートル)にあり、山頂を、占居(約十町歩)して、山城の城郭構造の、系流に属するもので、藩主の御殿を中心に、家中家紋や、御台場。調練場等を配し、土塀(一部が現存していおり、今回の復元の参考とした。)等で周囲を固め、一定の城郭構造となっています。

『浅尾陣屋跡案内板』より

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資料
 

私見
竹薮の中に佇む土塁  JR総社駅から見て北側、伯備線と吉備線との線路が分かれていく間にある神社が浅尾陣屋跡の目印となっています。道路が少し狭いので注意が必要ですが、現地には駐車場も完備されておりますので安心していくことができます。
 標高30メートルの微高地にはすでに民家が立ち並び、畑も耕されておりますが、しっかりと案内板が設置され、また遊歩道も整備されておりますのでかなり地元の方のご努力により維持されているのがわかります。その遊歩道に沿って歩いていくと、ほどなく現存する土塀跡が見えてきます。土塀跡は初めて見ますので慎重に写真を撮ります(笑)。さらに硝煙蔵跡にはコの字状に土塁が残されています。これだけ綺麗になっているのも竹薮を刈ってくださっている方々のおかげです。
 陣屋跡というよりも立派に城跡として機能している姿を垣間見れた気がして、この浅尾陣屋跡は結構満喫できました。
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