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金川城跡 登城日:(2005.01.04) 所在地: 御津郡御津町金川 |
歴史 |
この城の築城は諸説があって定かでないが松田氏系図第八代元成が松田氏本城としたのは確かのようである。 永正六年(1509)玉松城と命名(三条西実隆) 永禄十一年(1568)宇喜多直家により落城、宇喜多春家在城 慶長八年(1603)日置忠俊修築 廃城も不明であるが元和の一国一城令まであったかもしれない。現状は最終的遺構である。 ◆玉松城碑 臥龍山にはじめて砦が築かれた年は明らかでない。戦国時代の初め1480(文明十二)年頃、松田左近将監元成が本拠を金川に移して以来五代約九十年にわたって西備前随一の山城として栄えた。1509(永正六)年城主元勝は三条西実隆より玉松・麗水のニ書を贈られ、以後玉松城と命名した。1568(永禄十一)年七月五日、宇喜多直家に攻められ、城主元輝嫡子元賢共に壮烈な戦死を遂げ七日早暁ついに落城した。 その後、1603(慶長八)年、徳川幕府の一国一城令によって廃城となった。 落城ここに四百年の星霜を経る。 『金川城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
金川城跡がある城山は、御津町の役場を目指していけばすぐにわかると思います。ちょうど大手となります登城道も役場前につけられていますので非常にわかりやすいですね。しかも登城口には縄張り図が書かれた資料が置かれています。が、私は搦手となる登城道を選択しましたので妙覚寺横から登っていきました。車は脇の駐車場に置かせていただき、七曲神社を左にそれ、谷筋を北へと登り勾配をあがっていきました。 途中約90度左に向きを変えるのですが、その曲がる地点に対して2本の大きな竪堀が合流しているようになっていますので1つめのチェックポイントとなります。 やがて曲輪にたどりつきます。道林寺丸です。ここでは石垣が一箇所だけよく残っています。そして何段だったか数えるのを忘れましたが、大きな削平地を進むと、本丸方面と北の丸方面とに分岐します。ここは迷わず北の丸へ。そして北の丸のさらに北にある大きな二重堀切に感動!さらにその先にも2つの竪堀がありました。北の丸では土塁が虎口状を綺麗に残しており、そしてその先には白水の井戸が口を開けています。急斜面を降りないと井戸にはいけないのですがうっかりはまるとしゃれにならないことになります。(--; やがて本丸に到着です。ここでは石垣跡らしき岩が散乱していますが、一番の注目は二の丸へと続く途中にある枡形虎口の土塁でしょうか。いや忘れてならないのが城内最大規模の井戸であります「天守の井戸」ですね。深さ、大きさも私が今まで見てきた井戸の中でも類を見ないくらいのものです。そんな井戸がきちんとガードされていない状態で保存されているのですから驚きです。動物の死骸や骨が残ってたりしないのかな?とも思いましたが、野生動物はそんなへまはしませんよね?(笑) 二の丸では第三の井戸、杉の木井戸を見たのですがなんかもうすでに感覚が麻痺してますので当たり前のようになっています。備前の山城はここのようにきっちりと井戸が残っているところが多いですね。そんな中でもこの金川城は突出しており、また井戸だけに目がいきがちですが、大堀切や郭跡など、山城としての状態も満足のいくものです。ぜひ一度訪れていただきたい、お奨めの山城でした。
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