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冠山城跡
登城日:(2000.01.09)
所在地: 岡山市南沢
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
三の丸跡 堀跡が残ります。 天正十年四月十七日冠山城は、織田軍二万、宇喜多勢一万に囲まれ、下足守の山や谷は陣馬で埋まった。守りは城主林三郎左衛門、称屋七郎兵衛、松田左衛門尉、鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木興五郎、難波惣四郎、岩田多郎兵衛、権寂和尚、称屋興七郎、佐野和泉守、守屋真之丞、称屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など三百騎、総勢三千六百人で、羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦った。
城内より打ち出す銃火ははげしく、また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。四月二十五日不幸にして城内より出火し、火は燃え広がり城中大混乱となった。城主林三郎左衛門は最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木興五郎、難波惣四郎、権寂和尚など将兵百三十九人は自刃或いは壮烈な討死を遂げた。
加藤清正一番乗りの功名話、荒武者竹井将監が加藤清正と激闘ののち戦死したことなど激戦の状況が戦史に詳しく伝えられている。
小山ながら難攻の冠山城も遂に落城した。林三郎左衛門は行年五十一才、備中の国を半国与えようという羽柴秀吉の誘いをも断り、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。武士道に徹した冠山の城主及び将兵を心から称えたい。

『冠山城跡 案内板』より

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資料
 

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私見
本丸跡には忠魂碑が建てられています。 高松城跡からさらに北上し、429号線と交差すると右折。竜泉寺口のバス停のあるところの右手を見上げますと、いかにもそれっぽい小高い山があります。
脇に路駐して、すぐに登城します。真っ直ぐに山頂へと続く細道が続いており、左側には堀跡らしき痕跡が奇麗に残っています。そして三の丸、二の丸と看板が掲げられています。堀跡といい、郭跡といいここはあまり壊されておらず当時の雰囲気を窺い知ることができます。どうも総じて山城はあまり人の手が伸びていないようですね。
高松城に続いて2つめの境目7城のひとつである冠山城。予想以上の保存状態でした。
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