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鬼ノ城

鬼ノ城跡


登城日:(2007.05.26)
所在地: 総社市奥坂
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
防御力に優れた役割を想像できる角楼 鬼ノ城の見所の一つ、屏風折れの石垣 ◆南門跡
 南門は一辺五十五センチメートル前後の角柱を十二本使用した、大規模な掘立柱城門です。城門の中央には巨石を敷き詰めた通路と、7段からなる階段が良く残っていました。
 南門は規模や構造が西門と類似しているため、同じ設計のもとで造られたと考えられています。

◆東門跡(旧第一城門跡)
 鬼ノ城には、東、西、南、北門の四つの城門があります。東門跡は平成六年度に、鬼ノ城で最初に発掘調査された城門跡で、その後の城門の調査に多くのてがかりを与えてくれました。
 城門は掘立柱式で、柱は四本確認されていますが、他の城門の構造からみると六本柱であった可能性が考えられます。扉の取付く本柱は、大きな石の一部を弧状に加工していることから直径60センチの、丸柱であったことが判ります。間口三.三メートル、奥行き一.七メートル扉間口は二.四メートルあります。通路部の壁面は板壁であったと考えられます。門を入ると両側には扇状に開く石垣があり、正面には大きな自然の岩が入城をはばむかのように横たわっています。城門の両側の土塁には、約三メートル間隔で計五本の柱穴が確認されました。城門の防備を意図した柵かと考えられます。
 東門の本柱は丸柱ですが、他の三つの城門は角柱であり、また、角楼の石垣の間に立つ柱も角柱です。この丸柱と角柱の違いが何を意味するのかは不明ですが興味ある課題といえましょう。 復元された鬼ノ城の西門。内部はチョウナ仕上げな柱もありました。 ◆礎石総柱建物跡
 鬼ノ城で最初に発見された建物跡です。3x3間の建物跡で、桁行7.32メートル、梁間は5.6〜6.12メートル。柱の径は40センチほどと推定される。建物の構造は不明ですが、穀物などを収納した高床の倉庫かと推定されます。

 吉備津彦命の伝説の主、温羅(鬼)の居城と伝えられるこの山塊は、標高約400メートル、古代吉備の中心地に南面してそそり立つ岩山です。
 7世紀頃と推定される朝鮮式山城が、山頂付近を鉢巻状にとり巻いて、全周2.8キロメートルにも達し、現在でも城壁の石垣や水門、城門など当時の遺構をとどめています。
 鬼ノ城は標高約400メートルの鬼城山に築かれた壮大で堅固な古代山城です。吉備高原の南端に位置しており、眼下の総社平野には集落が営まれた官衙(役所)、寺院が造営されていました。また、古代の山陽道が東西により吉備の津(港)から瀬戸内海への海上交通も至便であり、まさに政治、経済、交通上の要地を一望できます。
 鬼ノ城の山容は擂鉢を伏せたような形状をし、山頂付近はなだらかな斜面となっていますが、山の八〜九合目より以下は著しく傾斜しています。この山頂部との傾斜が変化する部位に城壁が築かれ、全周約2.8キロメートルに及んでいます。
西門の南に延びる敷石  城壁は版築工法により築かれた土塁が主体をなし、城門が四ヶ所、排水機能をもつ水門が六ヶ所、また石垣などにより構成されています。
 特に復元整備を実施している角楼から第0水門までの城壁は、巨大な西門や、ゆるぎなく突き固められた土塁が復元され、当時の雄大な精緻な築城技術を窺うことができます。
 城内はおよそ30haという広大な面積があり、これまでに礎石建物跡、溜井(水汲場)、土取場などが見つかっていますが、今後の調査によりさらに新たな発見が期待されます。
 築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した白村江の海戦(663)において大敗した後、唐、新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられています。鬼ノ城は当時の東アジア情勢を反映した遺跡と言えます。

『鬼ノ城跡案内板』より

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資料
 

私見
急斜面に残る高石垣 西門とほぼ同じ構造とされる南門  約3年ぶりに鬼ノ城にやってきました。前回は半分ほどしか見れませんでしたので、今回は1周2.8キロ(+礎石建物群跡)を歩いてきました。かなり復元、整備が進んでいましたので前回感じた印象とは全く異なっていました。
 その行程を全て書いていると長ったらしくなるので割愛しますが、印象的な点だけを書きます。やはり最初に目に入ってくる角楼の完成された状態、とくに建物の土台となる腰巻土塁状の土の表面加工状態には引き込まれましたよ。本当にこんな状態だったのか?
 水門に使われている石垣にも惹きこまれますね。すべて下まで降りていってじっくり見ていました。というのも今回は前日に雨が降っていたのもあり、水が流れ落ちる水門の写真が撮れることを密かに狙っていたからなんです(^^;。しかし結局はチョロチョロと石垣下を染み出してる程度だったのは残念でした。鬼ノ城全体図を見てみると水門跡はすべて南側に集中していますが、何故なんでしょうね。屏風折れの石垣なんて内部から雨が染み込めばキケンなのに、水門は近くにないんですね。ま、おそらくはその高度と関係があるからなのかもしれませんが。
 次に4つの城門ですが、それぞれ異なった特徴を持つ復元が細部にわたって復元されているのは嬉しいですね。柱に使われた木材が角柱か円柱だったかなどその両者を使い分けた意味が知りたくなってきます。
鬼ノ城の第五水門跡 一番規模が大きい復元となっている北門跡  屏風折れの石垣は、前回見ることができなかった遺構でしたので感動もひとしおです。遠くまで見下ろせるロケーションも最高ですね。折りしも韓国の学生さんが数多く訪問されていました。彼らにはこの鬼ノ城はどう映ったのでしょうか。聞いてみたかったのですが、勇気が足りませんでした。
 最後に、この鬼ノ城は日本100名城の1つとしても認定を受けており、スタンプラリーに参加するためのスタンプも設置されています。実はそのスタンプが設置されるのは訪問した日の1週間後だったのですね・・・またスタンプだけ押しにいかねば(^^;。
 しかしその設置されているというビジターセンターの入口付近にはものすごいハエか蚊が飛び回っており、中に入るのをかなり躊躇われました。たまたまですよね、きっと。(^^;;;
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