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経山城跡 登城日:(2004.03.14) 所在地: 総社市黒尾 |
歴史 |
経山城は、『備中府誌』によると天文年間に大内義隆によって築城されたと記されている。この時期には天文十二年(1543)に赤松晴政の軍勢との攻防が熾烈を極めた。当時大内義隆と尼子晴久の激突はいよいよもって激しくなり、大内義隆は筑前以下七カ国の軍勢十万余騎を従えて、出雲の富田城へ急襲した。備中も多くの将兵が出陣していたため、この隙をうかがい侵入を開始してきたのが播磨白旗城主赤松晴政であった。浦上宗景・宇喜多興家らを派遣し攻撃の陣を進めている矢先、将軍足利義晴から赤松のもとに細川次郎・三好長慶らを討つよう奉書が届けられた。そのため赤松勢は撤退を余儀なくされたのであった。 やがて、元亀年間(1570−73)になると毛利氏の支配下となるや小早川隆景の配下、二階堂近江守氏行・中島大炊介元行らが城代として据えられた。しかしそこを尼子晴久が襲い掛かったのである。元亀二年(1571)、一万余騎で城を包囲した。この時守側はその数数百。落城は必至であったところ、偶然にも激しい風雨に見舞われた。守側はこれ幸いと打って出、見事尼子軍を撃退したのであった。 その後は明らかではないが、天正十年(1582)の高松の役後、羽柴軍と和睦しこの領地は宇喜多氏のものとなった。 『日本城郭体系13』新人物往来社刊参照
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資料 |
私見 |
経山城跡へいく場合、車しかないのですがその駐車スペースに一番頭を悩まされることになります。いっそのこと鬼ノ城跡の駐車場に車を停めそこから歩いてきてもいいかもしれません。10分もあれば登城口に着けるんじゃないでしょうか。 さて、標高372メートルと高いものの、比高自体はさほどないように思えました。はじめはまっすぐに登ること約5分、そこから稜線を左折し、約10分ほど歩きます。途中は見晴らしもなく、ただ南へ歩みを進めるだけです。 やがて北郭の真下に到着です。上にはくずれそうな石垣があり、また北郭から南へと視線をやると主郭を中心にいくつかの郭がまわりを取り囲んでいるようです。また西部には一段低くなった地形になっており、ここが掘跡だったらしいです。そしてその南端には虎口が残っています。 とまぁ、かなり面白い遺構が盛りだくさんな山城なのですがなかでもここから眺める鬼ノ城の雄大な姿は言葉にできないものを感じさせられました。まずはこの経山城を攻め、そしてさらに奥に控える鬼ノ城へとセットで行かれることを強くお奨めいたしますよ。
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