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竹山城跡
登城日:(2003.06.14)
所在地: 英田郡大原町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 標高430メートルを誇る竹山城跡  竹山城は太平記にその名が出てくる中世後期の吉野郡第一の山城である。
 城は東を大手とし、西を搦手とした。山の姿は北高南低、巽の方は竹林が繁茂しており山の名がついた。東から本丸と西の丸、その間に馬場、西の丸の西方に坊主が丸、本丸の東方に太鼓の丸がある。段郭は東方に二ヶ所、馬場の北方に三段ある。堀切は坊主が丸の西に一ヶ所、井戸の跡は東北西の三ヶ所、門の跡は二ヶ所である。戦国山城の立地条件は(1)天然の要害、(2)重要地点(因幡街道を見下ろす)、(3)攻撃の拠点、竹山城はこの三つの条件をみたした山城である。
 大原町一帯は山陽側の赤松、山陰側の山名両氏の勢力争いが行われた土地である。新免伊賀守貞重は山陽勢力赤松、浦上、宇喜多と結び、明応二年(1493)山王山城から移ってきて、約二万石を支配したという。家臣を周辺の諸城要所に配置し、その後、宗貞、宗貫の三代百八年間、関が原敗戦まで在城した。武蔵の祖父平田将監、父平田無二斎はこの城の家老であり、剣道師範役としても仕えていた。
 標高四百三十メートルあるこの城跡は町内随一の展望台であり、眼下に宿場町の面影を残す家並と、南に武蔵生誕地宮本を望み、遠く東に美作富士と呼ばれている日名倉山、北東には岡山県最高峰後山が望まれる。

『竹山城跡案内板』より

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資料  

私見 標高430メートルを誇る竹山城跡  中国自動車道佐用I.Cを降りて国道373号線を北上し、429号線に合流したあとすぐに左折し、川を渡った正面の山が竹山城跡です。山頂までは車でなんとか登れる幅の道がつけられているのですが、車幅の広い車は慎重に登っていってください。その登城口には簡単な案内板が設置されていますのでわかりやすいと思います。
 標高430メートルを誇る竹山城は予想以上に高い位置にあるなぁというのが第一印象でした。天候がよくなかったので見晴らしはそれほどでもなかったのですが、街道を見下ろすことのできる絶好のポジションはまさに重要拠点であることを強く認識させてくれるものでした。
 山頂部にある案内板によりますと、東西に広がった城域にはいくつかの郭が連続して続いていたようです。郭跡らしき土塁や堀切などもあるにはあるのですが、もう少し整備できるんじゃないのかなぁというか、テレビ塔のために破壊されてるようでした。気軽に本丸まで車で登れるという利点はありがたく思っているのですが、しかし歴史遺産との共存には十分気をつけていただければなぁ、と思うんですけどねぇ。
 そういえば麓の大原の集落内には江戸時代の宿であった本陣跡や脇本陣跡が整備されており、こちらは歴史観光施設らしい風格を漂わせていました。竹山城にも同じような整備を・・(^^;
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