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鶴田藩西御殿跡登城日:(2009.05.05) 所在地: 津山市桑下 |
歴史 | ![]() 藩主松平武聰(たけあきら)は、慶応三年(1867)三月二十六日、里公文中村の大庄屋福山元太郎邸に入り、藩名を「鶴田藩(たずた)」と改めた。そして、士卒や家族はそれぞれ近在の民家に寄寓し、慣れない土地での生活を行うこととなった。これは、別の観点からみれば、作州移住後は六万一千石の大名が八千三百余石で生活するという、経済的にみても極めて苦しい立場となったのである。 その後、人心も落着きを見せ、鶴田藩の統治機構が次第に整うにつれ、移住後福山邸に起居していた藩主や家族についても新しい居所が検討されるに至った。当初候補地となったのは、久米北条郡下打穴村内の鬼山であったが、慶応四年六月以降鶴田藩領となっていた同郡桑下村内のこの地に建設されることとなった。 鶴田藩主の居館は、この西御殿の地に建築され、藩主がここに移ったのは年号も改まった明治四年(1871)の六月であった。しかしながら同月の版籍奉還、翌七月の十四日には廃藩置県の詔書が出され、松平武聰は藩知事の職を解かれて東京へ召されることとなった。 武聰の東京への出発は同年八月二十三日であり、藩主がここへ起居したのはわずか足掛け三ヵ月の短期間であった。 『鶴田藩西御殿跡案内板』より
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資料 |
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私見 | ![]() まったく不勉強で全然歴史のことは知りませんでしたが、非常に詳しい案内板の文章のおかげでよくわかりました。遺構について触れていただけたらもっとありがたかったなぁ、と思いつつ、すぐに山城探索を再開したのでした(^^;。 ちなみに東御殿もあったようですが、そっちは施設が建ってしまっているので消滅してしまっていることでしょう。(未確認)
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