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津山城跡


登城日:(2005.08.16)
所在地: 津山市
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
復元された備中櫓です。 森忠政公が鎮座しています。  津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長九年(1604)に起工し、元和二年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
 往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落とし等の備えを持ち、粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には七十余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
 この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
 明治六年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌七年から八年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
 その後、明治三十三年(1900)城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和三十八年に国の史跡に指定されました。
◆城主一覧
復元された備中櫓です。 ・森家
 森家は清和源氏で、初代津山藩主森忠政は、美濃金山城主森可成の六男に生まれました。慶長八年(1603)徳川家への数々の武功が認められて、信濃川中島十三万七五百石の大名から美作一国十八万六五百石の大名に抜擢されました。この忠政は、本能寺の変で主君の織田信長とともに壮絶な最期を遂げた森蘭丸の末弟にあたります。森氏は四代95年にわたって美作国を治めました。その後、森家は十一代藩主長矩の子長直が備中西江原藩主として森宗家を再興し、さらに宝永三年(1706)播磨赤穂に移りました。

・松平家
 森家にかわり十万石の大名として新たな津山藩主となった松平家は、徳川家康の第二子結城秀康の曾孫で越前家と呼ばれ、徳川一門中に重きをなしていました。そして明治四年(1871)に廃藩となるまで、九代一七四年にわたって続きました。

『津山城跡案内板』より

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資料
 

私見
見事な石垣が残ります。  花の名所として有名な津山城は、ちょうど藤が奇麗に花咲いています。ここ津山城は一年中花が咲き乱れているのか、とそんな印象を受けます。
 駐車場から正面に回りこんでいる間、高くて存在感のある石垣に圧倒されっぱなしでした。まるで石垣が単なる石垣じゃなく、建物のように見えたのは私の気のせいだったのでしょうか。
 入城料を支払い、中に入るとすぐ右手に小さな動物園があります。天守閣に入るわけでもないのに有料なのはこういうことかと思いました。もののけ姫を彷彿とさせるいのししが一番気に入ってしまいました。(^_^;
 二の丸跡を過ぎ、本丸跡に出るまで高い石垣はずっと続きます。そして逆に本丸跡から下を見下ろすと石垣の壮観な景色が目に入ります。と、思いきや桜やいろいろと木が植えてあるのであまり上からは石垣がよく見えません。
 奇麗な庭園となっている本丸跡はそのままに、私は天守台へと向かいます。左隅には虎口がありました。特にその形状がすばらしく、複雑に入り組んだ仕組みになっています。天守台に登るとその全貌を覗くことができました。
 最期に搦め手を抜けて津山城をあとにしました。かつてはここに五層の天守を誇る城があったとは信じられないほど、城跡はすっかり石垣が主役となってしまってましたが、今となってはそれで十分だという感想を持ちました。
備中櫓の中です。 津山城の最高所から  6年ぶりに津山城を訪れますと、櫓が復元されていました。今までの雰囲気を壊すことなく実に丁寧に作られているように感じます。備中櫓には中で休憩できるようになっており、なんと私が訪れた時は10人ほどの観光客がビデオを閲覧しながらくつろいでおられました。新たな憩いの場の誕生ですね。
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