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末弘城

末弘城跡


登城日:(2012.05.04)
所在地: 中津市永添、正行寺
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
 城慶山正行寺と雲華上人
末弘城跡である正行寺 末弘城跡である正行寺  ここ正行寺のある場所には、戦国時代末弘城があり、現在でも、城屋敷、外屋敷などの地名が残っています。『両豊記』によれば、天正七年(1579)末弘城の城主末弘対馬守正行は、宇都宮一族の野中鎮兼に攻められ、降伏して城を明け渡しました。降伏のとき、剃髪し墨染衣の僧侶の姿となり、名も正行は妙玄・嫡子四郎は妙秀と改めたそうです。後に妙玄は、城跡に寺を創建しました。寺の名前は妙玄の俗名をとって正行寺とし、城慶山と号しました。現在の本堂などの建物は、雲華上人が再建したものです。
 正行寺には、四ヶ寺の支坊、九ヶ寺の掛所がありました。
 末弘雲華は、安永二年(1773)、豊後竹田の満徳寺十三世の住職圓黙の子として生まれました。正行寺の住職皆住院頓彗(鳳嶺)に満徳寺圓黙の二女(雲華の姉)が嫁いだのですが、二人には子供ができなかったため、雲華が正行寺の養子となり寺職を継ぎました。雲華の姓は末弘、名は大含、雲華は号で、別に鴻雪・染香人・枳東園とも号し、雲華上人と呼び親しまれていました。上人とは、智と徳を兼ね備えた僧侶や人々の師たる人の敬称です。
 雲華は、中津の倉成龍渚、日田廣圓寺の圓門、筑前の亀井南冥に学び、さらに京に遊学して学問に励み、東本願寺の学頭にまでなりました。
 雲華は、仏教・儒学のほか詩歌や書画に優れていました。
 中でも、蘭を画くことに秀でていました。
 雲華は、嘉永三年(1850)七十八才で没し、正行寺裏の城屋敷の丘に眠っています。

 正行寺の雲華を、訪ねて多くの学者や画家などが来ました。田能村竹田や頼山陽もその一人です。雲華の親友頼山陽は、文政元年(1818)十二月五日、日田を発ち、翌日正行寺の雲華を訪ねて来ました。山陽は雲華などに途中通った山国谷の景色のすばらしさに感動したことを語り、再び十二月十日から十三日にかけて、今度は雲華や松川北渚などと山国谷を訪れました。前にも増して感動した山陽は、山国谷を耶馬溪と名付け、その景色を全国に知らせたのです。
 雲華の交友範囲は広く、その主な者だけでも次のとおりです。

 儒学者:亀井南冥、広瀬淡窓、原古処、菅茶山、頼山陽、篠崎小竹
 医者:小石元瑞、帆足万里、脇蘭室、樺島石梁、貫名海屋など
 画家:田能村竹田、岡田半江、谷文晁、野呂介石、浦上春琴など
 中津関係:倉成龍渚、野本雪巌、山川東林、辛島正庵、松川北渚、八條半坡、津田小石、大西圭斎、田中信平(田信)など

『正行寺案内板』より

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資料
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私見
末弘城跡である正行寺  末弘城は、正行寺となり城としての雰囲気はなくなっているようでした。同寺の案内板にも末弘城のことはわずかに触れているだけで、あとは雲華上人のことばかりですので現状も推して知るべしといったところでしょうか。日本城郭体系によれば堀が現存するとありましたが、現在も残っているのかは不明です。そもそもあったとしてもこの早朝では誰にも出会えず、ただ一人で散策するのみです。それにしてもこの五月の季節に、城の案内板がよくツツジで文字が見えなくなっていることがよくあるのですが、もうちょっと読み手のことを考えていただきたいなと思う今日この頃です(^^;。私は平城あるあるだと思うんですけどね。
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