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時枝城跡登城日:(2012.05.04) 所在地: 宇佐市下時枝 |
歴史 |
時枝城初代城主時枝大和守左馬惟光は応永年間(西暦1400頃)に山城国慶安寺より宇佐八幡神宮寺の弥勒寺寺務役として下領地猿渡(当時上下時枝を含む)及び鬼木村(現豊前市内)を与えられ下時枝森田の地に築城した。その後代々の城主は領民を撫育し群雄相争う時代によくその城を守った惟光五世の孫武蔵守平太夫鎮継は戦国末期の城主として郡内の諸豪相争う中にあり大いに活躍勇名を馳せた。天正十五年(1587)豊臣秀吉の重臣黒田勘兵衛孝高が豊前国の内六郡(京都郡築城郡仲津郡下毛郡上毛郡宇佐郡十二万三千石)の領主となるに及び平太夫は黒田軍に加わって戦った戦功を認められ家臣に加えられた。慶長五年(1600)黒田氏は福岡へ転封となったので平太夫は城を廃し黒田氏と共に福岡に移った。 昭和五十四年四月 建立 中時枝 石工 院内町 宇土告 『時枝城跡案内板』より 応永年間(1400年頃)、大内氏が宇佐神宮に寄進した一千六百町のうち、1千町を益永肥前が、六百町を山下玄蕃が支配していたが、やがて玄蕃は人望を失い追放となり、その後に山城国慶安寺の子惟光が入り、時枝氏を名乗るようになった。 弘治二年(1556)大友義鎮に降り家臣となった時枝平大夫鎮継であったが、毛利氏と通じ、大友方の赤尾氏が寄る光岡城を攻め落とすなど、反大友の姿勢を明らかにした。しかし周囲は大友方が多く周囲の諸勢力から孤立化することを恐れた鎮継は、小早川隆景に出兵を要請した。天正十三年(1585)、隆景はこれを受けて二百五十騎を派遣し、時枝城に入った。しかしこれを高家城中島統次の三百騎が夜襲によって城を攻め落とし、鎮継は周防の小早川氏を頼って落ち延びていった。 同十五年(1587)、豊臣秀吉の島津征伐に従軍していた黒田孝高を導き入れた鎮継は、同十七年(1589)黒田軍の力を借りて中島統次を攻め滅ぼした。 『日本城郭体系』新人物往来社刊参照
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資料 |
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私見 |
まっすぐに伸びて見通しのいい道路と田圃が広がる中、大きな碑だけが時枝城跡であることを示していました。元は何かが建っていたのでしょうか、現在は広大な空き地となっています。日本城郭体系では堀の一部が残存していると書かれていますが、訪れた時にその情報を持っていませんでしたので探していません。ここは、信号を渡ったところに時枝陣屋がありますから、1度に2城攻略できるポイントですね。陣屋のほうが遺構がありますので、そちらがお奨めですが(^^;。
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