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今西家土居屋敷跡
登城日:(2000.12.29)
所在地: 豊中市浜1丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
江戸時代中期の屋敷跡 今西家は元来、奈良春日大社の若宮神主中臣家(現千鳥家)の支流であるが、吹田市から豊中市域にかけて存在した春日社領垂水西牧内の南郷目代として、鎌倉時代末頃に当地に着任したといわれている。当時の今西家は神官でありながら、年貢の取りたてや秩序の維持といった在地領主的側面も併せ持っていたため、その居館もそうした多面的な要素をうかがわせる構造になっているのである。
 屋敷は二重の堀に囲まれており、内堀で囲まれた本丸部分は神域であり、春日社がまつられていた。そして内堀と外掘の間、二の丸部分には今西家の居住部分となり、さらに外堀の内側にはこの名称の由来ともなった土居(土塁)がめぐらされていたと思われている。
 今西家は、赤松範顕や森長可、明智光秀ら有力大名との間に婚姻関係を結んでおり高い格式を保つ家柄であった。
 山崎の合戦に際し、今西春房の弟春光が明智方に属して出陣したため、戦後羽柴秀吉によって所領を没収される憂き目を見たが、江戸時代にはいると領主保科氏の崇敬厚く、復興を許されることになった。しかし明治に入ると再び廃されることになった。
 現在残っている屋敷は江戸中期のものである。

『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
南側からの遠景。この田圃のところにかつて堀がめぐらされていました。  豊中市を低速二輪車でまわっています。その小回りの利くメリットをいかし、従来の城攻めではいかなかったようなところをいってしまってます。「屋敷跡」です。とうとうここまで手を広げてしまいました。しかしまぁ、構造が二重の堀をめぐらされていたということや当地の領主の居住地であったことから見て城と言ってしまってもいいと思います。別名で土居城ってのがあるくらいですしねぇ。
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