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貝塚寺内跡登城日:(2007.01.19) 所在地: 貝塚市中 |
歴史 |
貝塚寺内町は、南北約800メートル、東西約550メートルの広さをもつ環濠城塞都市であった。西は大阪港、北は北境川、南は清水川を濠と見立て、これらをつなぐ形で東に濠をめぐらしていた。慶安元年(1648)の町絵図によれば、濠の内側には土塁が築かれ、6ヶ所の町の出入口には番所がおかれていた。後年拡幅された中の町通りと府道堺阪南線を除けば、街路はほぼ当時のまま、現在も使われている。
『貝塚寺内跡案内板』より 貝塚寺内の草創について「日本城郭体系」によれば、麻生郷の海塚の地に庵寺が一宇と民家三十六軒が建っている状態であったのを応仁年間(1467−69)に蓮如上人が逗留したこともあったという。天文十四年にのちの卜半斎了珍が根来寺から迎えられて住持としたのがはじまりのようである。やがて貝塚が大坂本願寺下の貝塚御坊寺内として取り立てられ、根来寺や本願寺を結ぶ拠点として環濠城塞都市としての発展をとげていった。 天正四年(1577)、織田信長は石山本願寺への攻撃を開始した。これに対し本願寺は門徒や周囲の諸勢力と結び、貝塚寺内においてはその支城の一つとして機能していたものと見られる。毛利からの兵糧を瀬戸内から淡路岩屋を経て貝塚に上陸、それを堺・住吉を経て木津から本願寺に搬入するという重要な拠点を担っていた。 翌五年、織田軍を前にしてその前夜に城を開け放って逃げ散った貝塚寺内はことごとく火をかけられたという。やがて信長のあと秀吉が実権を握るようになる頃には貝塚は復旧をとげ、秀吉からは貝塚寺内に取り立てられるようになった。 慶長五年(1600)以後、徳川家康が実権を握るようになった際にも貝塚寺内は家康より資金を与えられ、土居を築かれたがこれは大坂の陣を前にしての徳川方の拠点とせんとする狙いがあったためのようである。 こうして巧みに時の実力者に利用されるようにして生きながらえた貝塚は幕末まで寺内都市として存在していった。 『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照
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資料 |
私見 |
南海「貝塚」駅を海側に降り、線路沿いに少し北へ歩いていきます。1つ目の踏み切りがあるところを左折して感田神社の脇を通りすぎた辺りからかつての貝塚寺内へ足を踏み込んだことになります。そのまま大きな通りを進んで願泉寺へ。このあたりが中心地だったのでしょうか、小さな石碑と案内板が置かれていますね。よく見れば堀跡らしきものも残っており、寺内町の名残りを散策してみるのも面白そうです。 しかし、この貝塚寺内は信長に攻め落とされたまでしか知りませんでしたが、秀吉や家康にもうまく利用され(活かされ?)、永らえてきていたんですねぇ。
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