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椋橋城跡
登城日:(2004.12.27)
所在地: 豊中市庄本町1丁目、椋橋神社付近
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
椋橋神社境内。  椋橋城がいつごろ築城されたのかは不明である。が、この地は多くの戦乱にまみえたことが記録にも残されている。応仁の乱の際には、西軍に属した大内政弘の軍が応仁二年(1468)7月、椋橋城を攻撃し、奪取した。がすぐに東軍に奪回される。さらに西軍は文明二年(1470)七月にも同城を攻撃したが、東軍の摂津守護代である薬師寺与一の家臣、夜久主計允に阻まれた。
 天文三年(1534)には不和となった管領細川晴元と三好利長(長慶)との間で争いとなり、利長は一向宗徒とともに椋橋城に籠もった。これに対して攻撃をしかけた晴元であったが逆に敗退。やがて利長と和睦し、利長は再び晴元に属することとなった。
 そうした利長の態度に納得がいかない一向宗徒は椋橋城を攻撃し、利長を信貴山城へ追い払ってしまう。

『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
かつての面影はありません。  椋橋城は以前から2、3度探しにきたことがありました。別の資料によれば尼崎市の戸の内にあるとも書かれているし、また天正六年(1578)の織田信長による荒木村重討伐の際に築かれた砦の一つに池田勝三郎(恒興)、勝九郎、幸新(輝政)らが倉橋に配されたことが残っています。いずれにしてもこの地が戦略上非常に重要な拠点であったことは間違いのないようですね。
 とは言え現在は椋橋神社付近、という極めてあいまいな状態でしかないというのが残念です。私が訪れた早朝は人影もまばらで、通勤客を乗せた阪急電車の走る音だけが響き渡っていました。
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