HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

千利休屋敷跡


登城日:(2005.05.16)
所在地: 堺市堺区宿院町西1丁
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
ビルに挟まれて、利休屋敷跡が残っています。  堺の豪商魚屋の長男として生まれた与四郎は初め北向道陳に茶湯を学んだが、更に道陳の師武野紹鴎に師事し、遂に「わび茶」を大成させた。
 千与四郎は、茶名千宗易といい、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町天皇より利休居士号を賜った。また、壮年時には抛筌斎(ほうせんさい)とも号していた。
 天正十五年(1587)10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、わび・さびの境地をきりひらいた。その根底には、大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられる。その後天正十九年(1591)2月秀吉の怒りをかい京都から追放され堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月28日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられた。この屋敷跡には、利休が茶湯に常用していたといわれる椿井が、また南宗寺には実相庵と称する二畳台目の茶席(塩穴寺より明治九年南宗寺に移築、第二次大戦で焼失昭和三十五年七月復典)がある。

『千利休屋敷跡案内板』より

【戻る】

資料
 

私見
ビルに挟まれて、利休屋敷跡が残っています。  国道26号線と阪堺線が交差する「宿院」の信号を1本西の路地を南へ入ったところに千利休屋敷がありました。ビルに囲まれてしまい、今ではなんとも窮屈そうに見えて仕方が有りませんが、跡地だけはしっかり残されているんですね。
 すぐ脇は通行する車の騒音がうるさい幹線道路ですが、ビル1つ挟んだこの屋敷跡にはまったく違った空気が流れているかのようです。秀吉に与えられたのが三千石。茶頭として以上に圧倒的な存在感は今も感じます。現代にも利休のような方はいるんでしょうかね。ってただお茶を入れるのがうまい人ってことじゃなくて(^^;。
【戻る】