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土佐藩住吉陣屋

土佐藩住吉陣屋跡


登城日:(2012.03.25)
所在地: 大阪市住吉区東粉浜2丁目、市立東粉浜小学校
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
 土佐藩住吉陣屋跡
新しく設置された住吉陣屋案内板  萬延元年(1860)九月、土佐藩はこの地に幕府より摂海防備のため1万坪余りの土地を与えられ、職人をはじめ木材・石材などにいたるまで土佐から運び込み、文久元年(1861)、この地に「土佐藩住吉陣屋」を完成させました。
 土佐藩士、佐佐木高行著の「保古飛呂比」によると、
 「幕府ヨリ、大坂警備ノタメ、住吉ニ於テ陣屋地ヲ交付セラル(中略)大坂表海岸御警護祓仰付、摂州住吉郡中在家村・今在家村入會ニテ、壱萬七拾九坪七合五勺、右之場所為陣屋地被下候間、(中略)住吉陣屋造営初マル、役掛、御仕置役 吉田元吉(東洋)、御普請奉行 後藤良輔(象二郎)、御作事奉行 寺村勝之進(左善)、但国役ニテ人夫数百人、普請方役人召連出役ス」
とあります。
 陣屋の西側は紀州街道沿いを正面に、東側(上町台地西崖)を除く三方向に堀を巡らせ、操練所などを備えていました。
 文久二年(1862)二月八日、土佐藩郷士、坂本龍馬は同地を訪れました。日が暮れて閉門していたため、住吉大社の「通夜堂」で1泊、翌日、龍馬の来坂を知った同藩桧垣清治が駆けつけ、両者は南朝史跡(阿倍野古戦場跡、北畠顕家墓所)を訪れました。その日、龍馬は「三文字屋」に投宿しました。
 二月十日、陣屋に詰めていた同藩、望月清平、安岡覚之助が「三文字屋」を訪れ龍馬と会談しています。坂本龍馬は約1ヶ月後脱藩し、勝海舟の門下生となり、明治維新の立役者となっていきます。
 その後、陣屋は撤去されることになり、主要な建物は、京都白川にある土佐藩邸に移築され、土佐陸援隊(隊長中岡慎太郎)は、この建物の使用を土佐藩に申し出ました。石垣は生根神社(住吉2丁目)の石垣に転用され、住吉陣屋唯一の遺構として見ることができます。
(参考文献:「保古飛呂比」「住吉区史」「佐佐木老侯昔日談」「維新土佐勤王史」「住吉名勝図会」)2010年11月粉浜名跡探訪会

『土佐藩住吉陣屋跡案内板』より

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資料
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私見
住吉陣屋跡  以前からこのあたりに土佐藩の陣屋があったことは知っていましたが、最近になって案内板や石碑が設置されたことを耳にしましたので行ってみました。東粉浜小学校を目指して地下鉄四つ橋線「玉出」駅から南東方面へ適当に歩いていきます。少し手前から住宅街の中の路地を歩いていたことが幸いしました。今回一番気になっていた案内板と石碑は民家の(おそらく)私有地の中にあるじゃないですか!ここはちょっと気づきにくいですねぇ・・。しかも撮りにくいです(^^;。
 あとは小学校や幼稚園が建つあたりを撮影して、この場は良しとしました。当日は子供たちや父兄が集まっておられ、一瞬焦りましたが、ここは冷静に誤解のないようにやり過ごしました。訪問の際は充分まわりに配慮した行動をお願いいたします。
 なお、住吉陣屋の唯一の遺構として、ここから少し南にある生根神社内に石垣が移築され、神社内で利用されています。こちらは堂々と落ち着いて撮影できそうですよ。
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