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高槻城跡 登城日:(1999.11.10) 所在地: 高槻市 城跡公園 |
歴史 |
高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、天文二十一年(1552)頃に、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれたとされています。
右近と父、高山飛騨守は、主君和田惟政の敵荒木村重とむすび、惟政の遺子惟長を追放し、元亀四年(1573)右近は高槻城主となりました。摂津国主である荒木村重が織田信長に反旗を翻した天正六年(1578)、村重へ子や妹を人質にだしていた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、降伏をすすめました。これに対し右近は、苦悩の末開城したといわれています。其の後右近が高槻城主であったのは、播磨明石(明石市)に移封されるまでの12年間でした。
右近は、千利休の七哲の一人である茶人でもあり、「利休極上一の弟子也」ともうたわれています。天正十四年頃秀吉と利休を茶会に招いたこともあり、南坊と号していました。 キリシタン大名としての右近は、天正二年(1574)城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の伝道に努めました。当時二万五千人の領民の内一万八千人(約72%)がキリシタンになったといわれています。 秀吉が、バテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否し、領地を没収されています。禁教令をだした徳川家康により、慶長十九年(1614)10月、国外追放処分を受けました。其の後、マニラ到着後40日ほどで熱病におかされてその生涯を終えました。 『高槻城跡案内』より
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資料 |
私見 |
今は見る影もないほどになってしまった高槻城ですが、高山氏以降の元和年間の土岐氏はさらに外側へ大きな堀を設け、城郭の規模は数倍の大きさになりました。さらに寛永年間の岡部氏の時代には、西側にも曲輪を設けたという記録が残っています。
今日は平日で、しかも下校時間となってしまったこともあって付近の島上高校や、中学校からあふれ出た学生の人波でとても写真なんて撮れませんでした。平日は3時までですね。活動時間は。
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