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陶器城跡
登城日:(2004.08.25)
所在地: 堺市陶器北、東陶器公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
公園脇には立派な土塁が  陶器城は、鎌倉時代の終わり頃北条氏の家臣陶器左衛門尉の居城でしたが、元弘三年(正慶弐年、1333)1月15日に楠木正成一族に攻め滅ぼされました。また、正平六年(観応二年、1351)7月には、南朝方の和田助氏と助重が北朝方の拠る陶器城を攻めています。
 明治時代に描かれたと思われる右の絵図によれば、城域は南北約190メートル、東西約160メートルで、堀と土塁に囲まれた本丸跡(約26メートル四方)を中心にして北西と南東にそれぞれ長方形の曲輪が突き出ています。城の周囲は堀(北西の曲輪幅約6メートル・南東の曲輪幅約8メートル)と土塁(北西の曲輪幅約1.5〜2.2メートル、南東の曲輪幅約12メートル)によって囲まれています。南東の曲輪には幅4〜6メートルの武者走りが土塁に設けられていたり、南部には虎口が設けられていたことがわかります。
陶器城案内板です。  北西の曲輪は東西約37メートル、南北約120メートルの規模ですが、この絵図が描かれた当時でも田畑の開発によりその周囲を巡る土塁・堀の一部が削られたり埋められたりしていたことがわかります。
 室町時代以降の陶器城の歴史についてはよくわかっていませんが、絵図に見られる武者走・土塁の規模などからして恐らく戦国期に改修を受け、絵図のような形態になったのではないかと思われます。
 現在でも城跡の遺構がよく残っており、中世城郭を研究するうえでたいへん貴重です。また陶器城跡に近接して、同時代の小角田(こかんだ)遺跡があり、城跡との関連性が注目されます。

『陶器城跡案内板』より

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資料
 

私見
公園脇には立派な土塁が  南海高野線「北野田」駅から西へ1.5キロメートルほど離れたところに陶器城跡はありました。この暑い時期に歩いていくのは無理なので北野田駅から出ているバスに乗り込みます。「東山車庫前」方面行きに乗り込み、「福田中」で降ります。そこから南へ約400メートルほど歩きます。目印は東陶器小学校ですが、城跡があるのはその南にある東陶器公園となります。
 公園奥には案内板が設置され、フェンスで守られた先には2メートルはある高い土塁が保存されています。しかし、保存されているとはいうものの荒れ放題にまかせっぱなしといったようにも見えます。
 来にくい場所にやってきてこの土塁はありがたいのですが、フェンス越しにしか撮影できないのは残念です・・。
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