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佐賀城跡 登城日:(2007.10.14) 所在地: 佐賀市城内 |
歴史 | ![]() 佐賀城本丸歴史館は、日本の近代化を先導した「幕末・維新期の佐賀」の歴史や、世界に活躍した先哲の偉業を検証し、分かりやすく伝える施設として、また、新しい郷土発展の源泉となる施設として、ここ佐賀城本丸跡に建設されました。 この歴史館は、佐賀十代藩主鍋島直正が天保期に再建した佐賀城本丸御殿(1838年完成)の一部を忠実に復元しており、本丸御殿の復元としては日本初、木造復元建物としては日本最大規模となる2,500立方メートルの広さを誇ります。 復元にあたっては、佐賀城本丸御殿の発掘調査、絵図・差絵・文献資料・古写真、類例建物など建物復元調査の成果をもとに、佐賀城本丸の正確な位置に遺構を保護しながら再建しています。復元された建物は、当時の名称で「御玄関」「御式台」「外御書院」「御料理間」「御納戸」「御仕組所」「屯之間」「御小書院」「御座間・堪忍所」という建物です。 建物周囲の国重要文化財「佐賀城鯱の門」、城堀、そしてこの天守台などの文化遺産とともに、当時の雰囲気を味わうことができる魅力的な空間です。 ![]() ◆佐賀城天守台 正保四年(1647)に記された『肥前国佐賀城覚書』によれば、かつてこの地に五層の天守閣が築かれていたという。本丸からは、この天守台には上がれず、二の丸の西から本丸石塁北の犬走りを通って入るようになっている。 初代藩主鍋島勝茂の時代、慶長十四年(1609)に完成した佐賀城の天守閣は五層の破風のない素朴ながらも実戦向きの建物であった。 佐賀城は、八反井樋と今宿江をせき止めれば天守と本丸の一部を除き、外は城下はじめ、全体が湖水化する設計になっており、敵の侵入を阻む仕組みになっていたといわれている。このため佐賀城を一名「沈み城」というのはこのことに由来する。だが、一説には他の城は城下から離れれば離れるほど、その天守が高々とそびえて見えるのに対して、佐賀城は城下を少し遠ざかると、楠や松の木に隠れて見えなくなるためだともいわれている。 しかし、佐賀城は享保十一年(1726)、四代藩主吉茂のとき、本丸・二の丸・三の丸・天守閣が焼失した。その後復興されたが、天守閣は再建されないまま今にいたる。 ◆佐賀城鯱の門及び続櫓 本丸御殿は慶長十三年(1608)から慶長十六年までの佐賀城総普請により造られましたが、享保十一年(1726)の大火で焼失しました。その後、約110年間は再建されることなく、藩政は二の丸を中心として行われていました。 ところが、この二の丸も天保六年(1835)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。十代藩主鍋島直正は、それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿の再建に着手しました。 この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので、天保九年(1838)の六月に完成したものです。 明治七年(1874)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の戦闘の激しさがしのばれます。 門の構造は、二重二階の櫓門に、一重二階の続櫓を組み合わせたものです。屋根は本瓦葺、入母屋造りで、大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれ、鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています。 ![]() ![]() ![]() ![]() 『佐賀跡案内板』より
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資料 |
私見 | ![]() まずは天守台からの眺めを楽しむことにします。ここからは外側が石垣、内側が土塁という構造がよく見てとれますね。また、本丸御殿も覗きおろすような角度から全体像をつかむことができます。当日は琴の音色が鳴り響いていましたので、なにやらイベントをやっているようです。 ![]() 本丸御殿は本丸歴史館となっています。入館料は訪問者の気持ちで入れていくというシステムなので、密かにプレッシャーを感じてしまいます(^^;。私はショップの品揃えを確認したらすぐに出たのですが、よく見てませんがとりあえずお姉さんにスタンプを押してもらい、また真新しい別のスタンプ帳も「よかったらどうですか?」と頂けたので気持ちよく入金箱に感謝の意を入れてきました。
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