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安土城跡登城日:(1999.01.31→2009.09.20) 所在地: 蒲生郡安土町大字下豊浦 |
歴史 | ![]() ![]() 大手門から西に延びる石塁には2箇所の出入り口があります。最も西端に設けられた出入り口は二度折れして入る枡形虎口と呼ばれる構造で、その東端に造られた出入り口は、平入り虎口と呼ばれる門を入るとすぐに城内に行き着くものです。 平入り虎口の東袖壁は石塁をL字状に屈曲させ幅を約5メートルに拡幅させています。伝羽柴邸下段郭にあるような櫓門になっていた可能性があります。西袖壁の南面側は基底石が残っていなかったため当初の石塁幅を確かめることができず、整備工事では左右対称の形に復元しています。また、登り降りする段差がありますが、石段等の当時の遺構が残っていなかったため花崗岩の切石を使い築城時のものと区別しています。 枡形虎口では二つの新しい発見がありました。一つは、枡形虎口の南面石垣沿いに幅約50センチの石敷き側溝が造られていたことです。このことから南面石垣沿いには通路のような陸地が百々橋口まで延びていることが明らかになりました。二つ目は、枡形虎口の西壁と南面石垣には約1.5メートル大の大石を等間隔に配置する模様積みですが、奥壁の石垣は約40〜60センチ大の石を布積みにしており石の積み方が違うことが分かりました。このことから、当初安土城の南面を画する東壁の石垣が造られていましたが、天王の行幸のため大手を三門にする設計変更をした際、南側に郭を継ぎ足して、石塁とセットになった枡形虎口が造られたと考えられます。 また、枡形虎口の上段には安土城廃城後、畑地として利用された時に造られた石垣が残っていました。廃城後の安土城の利用方法を知っていただき、石積みの違いを見て頂くため解体せず残しました。 ◆西側上段郭と竈跡 ![]() 発掘調査をしたところ、周囲より一段低い空間があらわれ、北側は石垣、西側は屏風折れ状の石組、南側は両脇に石塁を持つ間口約6メートルの虎口(出入り口)で限られていることが分かりました。そして、北側の石垣沿いには、井戸と洗い場とみられる敷石が見つかりました。 また、この空間からは、北西隅の上がり框と北東隅の虎口により東西の郭へ、南側虎口は石塁沿いの武者走り(通路)の西端にある石段を経て大手石塁西虎口にそれぞれ連絡できるようになっていました。 この一段低い空間には、建物の柱を支える礎石が4基残っていました。残っている礎石の数が少ないため詳しくは分かりませんが、残された礎石や礎石を抜き取った痕などから建物の規模を図で示しました。このような虎口に接した建物の例は、他の城跡でもあまり見られないものです。 また、この郭の西側から、数基の竈跡と隅や焼け土の入った皿状の凹地が見つかりました。竈は、何回も作り替えがあったとみられ、古い竈を壊して整地したのち、新たな竈を作っています。2回目に作られたものは、竈の壁を支える馬蹄形に並べられた根石と焚き口、堅く叩き締められた土間が残っていましたが、ここでは、竈跡を埋め戻して保存し、改めてその位置に平面表示しています。 これらの竈は、これに伴う遺構面を壊して先の一段低い空間が造られていることから、虎口が造られる前に使われていたことは明らかです。しかし、竈を作り替えるたびに整地し直した土の中から安土城で使われていたものと同時期の土器や作事場などに伴う遺構と考えられ、安土城築城中の様子が分かる貴重な遺構と言えます。 ![]() ![]() ここは、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡です。大手道に面したこの屋敷は、上下2段に別れた郭で構成されています。下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が建っていました。1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる大きな厩が建っています。武士が控える遠侍と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場となっています。背面の石垣裾に設けられた幅2メートル程の石段は、上段郭の裏手に通じています。 上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門です。その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。門を入ると右手に台所があり、さらに進むと主屋の玄関に達します。玄関を入ると式台や遠侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。さらにその奥には内台所や遠侍があります。3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366平方メートルあり、この屋敷では最大の規模を持っています。 戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることのできる、誠に貴重なものといえます。 ◆伝前田利家邸跡 ![]() 右手の道は最下段の郭に通じています。ここには馬三頭を飼うことのできる厩が建っていました。この厩は、江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書『匠明』に載っている「三間厩之図」と平面が一致する貴重な遺構です。厩の脇を通り抜けると中段郭に通じる急な石階段があり、その先に奥座敷が建っていました。 正面と左手の石階段は、この屋敷地で最も広い中段郭に上るものです。正面階段は正客のためのもので、左手階段は勝手口として使われていたものでしょう。前方と右手を多聞櫓で守られた左手階段の先には、木樋を備えた排水施設があります。多聞櫓下段の右手の門を潜ると、寺の庫裏に似た大きな建物の前に出ます。広い土間の台所と、田の字型に並ぶ四室の遠侍が一体となった建物です。遠侍の東北隅から廊下が東に延びており、そこに当屋敷の中心殿舎が建っていたと思われますが、現在竹藪となっており調査が及んでいません。さらにその東にある奥座敷は特異な平面を持つ書院造り建物です。東南部に突出した中門を備えているものの、部屋が一列しかありません。あるいは他所から移築されたもので、移築の際に狭い敷地に合わせて後半部の部屋を撤去したのかもしれません。 伝前田利家邸は、伝羽柴秀吉邸とほぼ共通した建物で構成されていますが、その配置には大きな相違が見られます。向かい合うこの二軒の屋敷は、類例の少ない16世紀末の武家屋敷の様子を知る上で、たいへん貴重な遺構です。 ◆ハ見寺跡 ![]() ![]() 平成6年度の発掘調査を行った結果、旧境内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見されました。南面して建てられた建立当初の伽藍配置は密教本堂形式の本堂を中心に、その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有のものでした。本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられています。境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は西の二王門・表門から本堂前を通り、東の裏門に通じています。建立に当たって、これらの建物の多くが甲賀郡を中心に近江国各地から移築されたことが、種々の記録から分かります。 その後、豊臣秀頼によって本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裏等が増築されました。江戸時代になると、伽藍の東側に長屋と浴室・木小屋・土蔵・木蔵など、寺の生活を支える多くの建物が建てられました。右の『近江名所図会』に描かれた様子を重ね合わせると、江戸時代を通じて活動を続けるハ見寺の姿がうかがえます。 ◆黒金門跡 ![]() 高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180メートルを越え、安土山では最も高いところにあります。東西180メートル、南北100メートルに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。高石垣の裾を幅2〜6メートルの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられています。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのです。 安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。 平成7〜12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。 ◆安土城天主台跡 ![]() ![]() 安土城天主は、記録から地上6階、地下1階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。皆様が立っておられる場所は、地層部分ですが、天主台の大きさは、これよりはるかに大きく2倍半近くあります。現在では、石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることはできません。下の図は、建設当時の天主台を復原したものです。その規模の雄大さを想像して下さい。 ◆本丸跡 天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西約50メートル、南北約34メートルの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭・三の丸各石垣で囲まれ、南北に向かってのみ展望が開けています。昭和十六年と平成十一年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34メートルx南北約24メートルの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。7尺2寸(約2.18メートル)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36センチ)の柱跡が残るものもありました。4〜6寸(12〜18センチ)の柱を6尺5寸(約1.97メートル)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。 礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿等を参考にして復原したのが右の図です。西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。 なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか。『信長公記』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天王行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。 『安土城跡案内板』より
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 安土城現地でのイメージを強く記憶に焼きつけると、足早に自転車をこぎ信長の館を目指します。ここには安土城の内装を復元した様子を見ることができるのです。入場料500円と安土城と同額なのがしっくりきませんが、狩野永徳が描いたといわれる金碧障壁画を含め原寸大の安土城5階、6階部分は圧巻ですね。フラッシュ撮影が禁止というだけですので慎重にフラッシュなしのモードに切り替えるとあとはもう撮影しまくりでした。正八角形で宇宙を形どっている5階部分と、正方形で金箔と黒漆塗りが豪華絢爛な6階部分。これがさっき見てきた巨大な天主台の上に乗っていたのかと思うと身震いします。この安土城が3年で幻の城とならずに長く残っていたとしたらきっとその後の城郭技術は今とはまったく違った方向に行っていたことでしょうね。そう思うと、安土は幻の城だからこそ惹かれるのであり、これはこのまま幻を幻想するのがいいのかもしれないなと思いました。
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