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敏満寺城跡登城日:(2010.03.06) 所在地: 犬上郡多賀町大字敏満寺 |
歴史 | ![]() ![]() 敏満寺は、九世紀から十世紀初頭ごろに、伊吹山寺の開基にたずさわった三修上人の弟子敏満童子の開基にかかる天台密教寺院であると考えられています。 以後、敏満寺は、天皇や皇族の崇敬を受け隆盛していきました。鎌倉時代に記された「一山目録」には、現在の胡宮神社付近を本堂とし、40余りの塔堂が立ち並んでいたことが書かれています。 室町時代に湖東の一大寺院と化した敏満寺は、その勢力ゆえに守護大名佐々木氏や京極氏とたびたび対立するようになります。応仁の乱以降は山門の一翼をにない、ことあれば僧兵を動員することになり、寺は要塞化した軍事拠点となっていきました。 そして戦国時代、永禄五年(1562)に浅井長政の攻撃をうけた久徳氏に味方したため長政に攻められ、当時130以上あったという坊舎はほとんど炎上焼失してしまいました。さらに、元亀三年(1572)には織田信長の命に応じなかったことから、残りの坊舎をことごとく焼かれ、寺領も取り上げられ、衰微の途をたどっていったのです。慶長年間(17世紀初頭)には残った礎石も彦根城普請のため運び去られました。 造園部一帯は、昭和六十一年五月〜昭和六十二年三月まで発掘調査が行われ、調査の結果、十五世紀末から十六世紀末にかけての遺跡であり、高く盛られた土塁、深く掘られた空掘から、要塞化した寺院遺構と考えられ、建物、門、井戸等の跡及び土器類も出土しています。 『敏満寺城跡案内板』より
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