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下坂氏館跡登城日:(2007.11.18) 所在地: 長浜市下坂中町 |
歴史 |
◆下坂氏館跡 室町時代(十五世紀初め頃) 下坂氏館跡は、室町時代において長浜南西部に勢力を伸張した下坂氏の城館である。下坂氏は、南北朝の争乱期に足利氏側の武将として活躍しており、代々下坂庄の地頭職を任ぜられていた。 城館の規模は、東西約八十八メートル、南北約八十七メートルの範囲において、高さ約一メートルから約二メートル、幅約五メートルから約七メートルの二重の土塁で囲み、主郭は東西約五十五メートル、南北約四十二メートルの内側土塁によって囲まれ、その北東部と南西部には二つの副郭が構築されており、南西部の副郭は一段高くなっており、武者だまりと考えられる。内側土塁の東側には土塁を切る形で高さ約二メートル、幅約七メートルの虎口が開口し、東側の東西約七十五メートル、南北約四十五メートルの規模を持つ腰郭へとのびる。以上のことから、下坂氏館跡は滋賀県下屈指の平地城館遺構と言えよう。 ◆下坂家文書 六百九十七点(室町時代〜明治時代) 文書の一番古いものは、足利直義が下坂治部左衛門尉に与えた感状で、建武三年(1482)七月二十五日の日付を持つ。近江国の「伊祇代宮」(草津市片岡町付近)の合戦において、親類新兵衛尉重宗が討ち死にしたことや、京都法勝寺の合戦で弟三郎貞兼が傷を受けたことを記し、下坂氏が奮戦したことを謝し、恩賞については追って沙汰する旨を伝えている。 京極家当主及び奉行人からの書状九通、浅井家当主からの書状九通が含まれている。特に、下坂家が浅井氏に仕えていたと同時期に、京極氏からの書状を得ていた事実は興味深い。最近の研究では、浅井氏二代の久政時代まで、高広を当主とする京極政権は、浅井氏政権と並立して存在していたとみられる。この地域で京極政権の文書をまとまって保有する所はなく、当地の戦国史の研究には欠くことのできない資料と言える。 『下坂氏館跡案内板』より
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資料 |
私見 |
駐車場の先に見えるのはひと目で堀跡とわかる遺構を有する下坂氏館は私有地内に残された平地城館でした。フェンスと監視用カメラが物々しく感じてしまいますが、普段から地元の方のご迷惑にならないよう心がけている私にとってはそれほど気になるものではありません。(って誰に対してのメッセージなんだか・・) ご案内くださった友人によれば以前は公開されて調査が入ったということっでその時の様子も聞きながら、恨めしく城域内を見つめておりました。ただ、東側に移動すれば目の前まで近寄れる土塁もありますのでそれだけでもこのあたりの平地城館の現況を考えればかなり満足のいく城攻めとなりました。 写真や文章表現は控えめ(当サイト比)としておきますが、ここは外に縄張りを示す図もありますし外から眺めるだけでも十分分かった気になれると思います。機会があれば立寄られてはいかがでしょう。
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