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膳所城跡登城日:(1998.06.28→2011.10.01) 所在地: 大津市本丸町、膳所城跡公園 |
歴史 |
膳所城は、慶長六年(1601)に徳川家康の命により藤堂高虎が縄張りし、天下普請の城として築城工事が行われた。 竣工後は大津城の戸田一西が入部し、その後は嫡男氏鉄、本多康俊、俊次等と代わり次第に城下町として栄えていった。 湖水にせり出した格好で作られた本丸は二の丸と廊下で結ばれ、水面に映える石垣や白壁、そして四層の天守は絶景であったという。 明治まで続いた膳所藩は、明治四年(1871)に廃藩となり、本丸跡は膳所城跡公園となり、二の丸跡が膳所浄水場となっている。 六体地蔵は膳所藩時代には大役を果たしてこられた地蔵さんである。 地蔵は錫杖をついて絶えず六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡り歩き、衆生の憂患を消除される。 冥途の旅の入口というので墓地の入口に造立されている。 六体の地蔵は舟形光背を持つ九十センチの堂々たるもので江戸初期の作と考えられる。 石柱に「波阿弥陀仏百万編講中十二月六日」裏に「宝永三年建立」と刻まれている。宝永三年は1709年である。 地蔵堂の建物は明治三年四月、膳所城廃城の時、藩に依頼して城内のお椀倉をもらって移築したもので、方三間あり、立葵の瓦が載っている。 お堂の左方、相模川にかかる石橋も江戸初期に作られたものである。 平成十五年七月吉日 西田将一郎 この表門は、旧膳所城の二の丸より本丸への入り口にあった城門で、明治三年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。 門は棟筋と扉筋とが同一の垂直面にない薬医門で城門として多く用いられています。屋根瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられ、桃山時代の建築として貴重なものです。脇には潜り戸を付け、頑丈な造りで、城門としての貫録を持っています。 大正十三年(1924)四月に重要文化財に指定されました。 平成五年(1993)三月 大津市教育委員会 この表門は、旧膳所城の北大手門として建てられたもので、明治三年(1870)の膳所城取り壊しの際に篠津神社に移され、翌々年に建てなおされたものです。 門は高麗門形式で屋根は本瓦葺となっており、旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられます。扉は内開きで、竪格子、腰部横板張りとなっており、脇門を付けています。 この高麗門という形式は、背面に特色があって正面の主体部から両方に袖のように直角に屋根が出ているものをいい、この形式は城門にも多く用いられています。 この門も桃山時代の城門の一つで、大正十三年四月に国の指定文化財になりました。 平成三年二月 大津市教育委員会 当神社は壬申の乱(672)があって三年後の白鳳四年(675)に天武天皇が、宇佐八幡の御神託「近江の湖水の辺り粟津にわが子人徳を祀り崇敬すべし」により、ここに当神社社殿を造営されることになりこの浦(湖辺)上下八丁(約八百メートル)での殺生を禁じられ、以後漁夫は恐れてここを特別の浦(別浦)と云い、のちに別保と呼び、現在もこの地域の地名として残り翌年(676)八月(九月)十五日放生会が行われました。 当神社の社殿等が完成したのは、四年後の白鳳八年(679)で九州の宇佐八幡宮の次に古い八幡宮で当初は粟津の森八幡宮、のちに若宮八幡宮となり、明治から若宮八幡神社となりました。 ところで当神社の社殿等は延喜十七年(917)雷のために全焼、その後、寿永三年(1184)源頼朝と木曽義仲の粟津の合戦でまたも全焼。勝った源頼朝が社殿等を再建。更にこの社殿等も、応仁の乱(1467)の兵火で消滅しました。 しかしその後、立派に復興され、膳所城の築城後は歴代城主、本田公が寄進し、社殿を始め境内建物の修繕等を持ってこられました。 境内には皇大神宮を始め沢山の摂社・未社が奉祀されておりますが、これは当神社の歴史が古く、この間に多数の氏子が奉仕崇敬され、極めて霊験あらたかな氏神さまであることを示しています。 この表門は、膳所城の犬走り門で明治三年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。大棟の背面に切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、正面向かって右側に脇門を設けています。門の規模は普通ですが、各部材の木割りも大きく堂々とした建物です。屋根は本瓦葺で、大棟の両端に鯱と鬼瓦をあげ、軒丸瓦には旧膳所城本多氏の立葵紋がみられます。 後世の補修はかなりみられますが、膳所城の数少ない建物であるとともに、江戸時代初期の城門建築として貴重なものです。 昭和五十三年(1978)二月に市の指定文化財となりました。 平成五年(1993)三月 大津市教育委員会 構造:両軒袖に頑強なる扉を備え木造瓦葺古風豊である。 大きさ:間口三間一分 奥行二間六分 沿革:明治四年膳所藩廃止にともなう城解体の際藩主より、お倉門と呼ばれたものを寄附せられ此処に移した物である。 特長:慶長年間膳所城造営当時の古建築物で文化財と謂はれるものである。 『現地案内板』より
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資料 |
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私見 |
随分以前に城跡公園だけを訪れたことがありましたが、膳所城を堪能したとは決して言えませんでした。やはり膳所城を楽しむには城域よりも周辺に移築された建物遺構を巡らないといけませんよね。廃城後に門を払下げたり、移築されることはよくあることですが、膳所城はその数が多いこと、そしてどこに使われていたものであるかが明らかにされていますからいいですね。想像しやすいです。 城跡は公園整備されていますが、なぜか市の生涯学習センターの建物が一番立派な城郭風建物となっているのが驚きでした。そして湖岸道路に面している復元門が城跡であることを分りやすく伝えてくれてはいますが、残念ながら門を見るならここじゃないんですよねぇ。 また、二ノ丸跡にもお城風の建物が建っています。なんというかここだけ見れば膳所城は一体どうなってるの?(笑)と思ってしまいます。本丸跡は現在も湖上につき出た地形は維持しており、お城のものらしいゴロゴロした大きな石が転がっています。せめてここに近隣に散在している移築建造物のマップとか、往時の縄張り図などがあれば全然印象が違ってくると思うんですが。 膳所城の移築門巡りは、同時に往時の城下町の風情も感じられれば膳所の面白さが伝わってくるのではないでしょうか。南北に延びた城下町は、現在も残る鉤状に曲がった道路や雰囲気のある佇まい。土塀・・。また移築門についてもそれぞれが威風堂々とした趣を見せてくれますし、立葵の紋も少しずつ違っていて、興味深いものがありますよ。芭蕉会館となっている二重櫓が見られるのも驚きです。自転車で一帯を散策できるようになれば充実したお城めぐりになると思います。私は1日歩き通しで疲れきってしまいました(^^。
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