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松江城跡
登城日:(2000.11.04→2007.04.07)
所在地: 松江市殿町、城山公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
松江にきたらまず堀川めぐりをしましょう。 塩見縄手です。 ◆塩見縄手
 城郭の構えを定めるとき、先ず縄張りをして塁壕などの形態を区画しました。城下町では、縄のようにひとすじにのびた道路のことを縄手といいます。
 寛永十五年(1638)松江に入府した藩祖松平直政の町奉行に塩見小兵衛がいて、この地に居をかまえました。居住期間はそれほど長くはないが、異例の栄進をした家柄であったので、その栄進を記念して塩見縄手の名が生まれました。壕に沿ったこの地区は江戸期の風情が感じられ、五百石から千石程度の武家屋敷の遺構も残っています。
 文化財の保存とともに国際文化観光都市松江にふさわしい地区であります。
 昭和四十八年松江市伝統美観保存条例にもとづき伝統美観地区に指定されています。

◆北惣門橋
 この橋は、江戸時代には内堀の東側にあった家老屋敷と城内を結ぶ重要な通路でありましたが、明治時代の中頃に石造りのアーチ橋に変り、長らく「眼鏡橋」と呼ばれていました。
 そこで、史跡にふさわしい江戸時代の木橋とするため橋下の発掘調査結果や絵図や文献史料を検討して長さ18.54m(九間四尺五寸)、幅3.82m(ニ間)の規模で平成六年十一月に復元完成したものです。

家老屋敷跡です。 北惣門橋。ちょうど堀川めぐりの舟と出会いました。 ◆史跡松江城二の丸下の段の遺構
 この二の丸下の段一帯は、江戸時代に米蔵や屋敷などのあったところである。
 米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢饉がしばしば発生するようになったので米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようになった。
 城郭図によれば、築城時(17世紀)にはL字型に建つ二棟の米蔵と門や塀が存するだけであった。  延宝七年(1679)には、越後騒動により配流された高田藩の忠臣荻田本繁(主馬)とそのこ民部、久米之助のためにこの地の一角に「荻田配所」が建造された。
 さらに十八世紀以降になると「荻田稲荷社」をはじめ米蔵が新たに五棟も新造されたが、この内三棟は天保年間に建てられたものである。やがて明治維新となり不要となった建造物群は明治八年に至り天守閣を除いてことごとく取り壊されてしまった。その後、一帯は運動場となり明治三十三年には島根一中と鳥取中により両県初の野球試合が行われたり、諸種の建物、施設も出来て文化やスポーツの場にも使われたりした。
 松江市では、昭和四十七年度から三次にわたり米蔵を中心に発掘調査を実施した結果、今見るような石積基壇の遺構が発見され、ほぼ縄張図や城郭図どおりの規模であったことが確認された。

◆石垣
 松江城の石垣は、打込はぎといって石切り場で切り出した石の平坦な面の角をたたきつき合わせやすくした積み方がほとんどで、慶長年間に築かれた城によく見られます。又、自然石やその割石を積んだ野面積や石を全面加工した切込はぎも一部に見られます。
 ここの石垣台にはよく見ると分銅の形をした記号がのみでたくさん刻まれています。これは松江城を築いた堀尾家の紋です。また、二の丸下の段の西側石垣にも△印などたくさんの刻印を見つけることが出来ます。
 刻印は、工事の分担や石切り場の区別、合わせ印など土木工事を円滑かつ組織的に行うために付けられた記号と考えられています。
二の丸跡です。 搦め手にある石垣です。 史跡松江城
 豊臣秀吉、徳川家康に仕え、明智光秀討伐戦や関が原の合戦などで武功をたてた堀尾吉晴は慶長五年(1600)出雲隠岐両国二十三万五千石の太守として広瀬の富田城に入城した。
 しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下町を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。
 築城工事は、慶長十二年(1607)から足掛け五年を費やし慶長十六年(1611)に一応の完成をみた。城地の広さは東西三百六十メートル、南北五百六十メートルあり、周囲に幅二十〜三十メートルの内濠をめぐらす。
 標高二十八、一メートルの頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ六ヶ所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。天守は本丸の東北隅に築かれている。二の丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。本丸の東側の平地は二の丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
 その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。城山の南には三の丸(今の県庁附道)があり藩主の御殿があった。
 石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山石(いわゆる大海崎石)が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
 城主は堀尾氏三代、京極氏一代といずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が十代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えた。
 明治八年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇請により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守としてその威風堂々たる偉容を今も宍道湖畔に映し出している。

松江城跡案内板より

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資料
 

私見
現存する天守です。重々しい雰囲気ですね。 現存天守を持つ松江城。前からいきたかったんです。しかも今回は城をぐるりとまわる堀川めぐりをセットにしてみました。堀川めぐりとは城のまわりを小さな舟で堀をめぐるのです。普段では目にすることのできないローアングルから見た町並みは非常に新鮮です。またそれを意識して松江市もかなり掘のまわりには気を使っているのでしょうね。約1時間の堀川めぐりは美しい景観とゆるやかな堀の流れにすっかりリラックスさせてくれました。ただし混んでいるときはやめたほうがいいですよ。特に体がかたい人は(謎)。  正面から登城したのですが、お城の感想としては意外と現存建造物が少ないなぁ、でした。しかも一部ブルーシートがかけられており、あれ地震の影響がここにも?と思いましたがどうやら修復工事をやっているようでした。それがなかったら正面からいい絵が撮れたのになあ。
花見シーズンにお城は似合いますねぇ。  最近、築城400年祭を各地でやっていますが、松江城もまた同様でお祭り状態です。さらに訪れたのが桜の見頃ともあいまって、訪問客が半端じゃありません。本丸では花見の宴会があちこちで盛り上がってしまってますよ。なんとまぁ写真の撮りにくいことで・・・(-_-;;
 7年振りでしたが天守の印象は変わってなくて(そんな自分にもw)安心しました。今回は搦め手側から登城したので少し印象が違った感がありましたが、桜とのツーショット?が撮れただけでも十分満足です。ただあえて言わせていただくと、奥去の門跡が「通行禁止」となっているのはいただけませんね。100名城として訪問客を大いに迎えようとしているのですから(あ、これはあくまで全国的な機運として、ね)、キケンだから通行禁止というのはなくしていってもらいたいですよ。それでも通っている人も何人かいましたし、やっぱりキケンじゃない程度に手を入れてもらいたいです。でも史跡保存という観点が絡んでくるならば、慎重になるのは言うまでもないですけど。
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