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新宮党館跡


登城日:(2006.10.08)
所在地: 安来市広瀬町新宮
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
かつての新宮党の墓石です。  新宮党とは、尼子氏の中心的な家臣団である。尼子経久の次男で晴久の叔父にあたる紀伊守国久とその子式部大輔誠久・同左衛門大夫敬久らが率いる三千余騎の集団であった。
 毛利元就は尼子家と新宮党との離間策を謀り、尼子氏の弱体化を狙った。はたして晴久は新宮党謀反の噂を信じ、天文二十三年(1554)新宮党を殺していくようになる。その後晴久の死もあり、尼子氏は大きく衰退していった。

『日本城郭体系14』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
周りの田圃よりも一段高いところにある新宮党館  山中幸盛屋敷跡よりもさらに奥の山間に進んだところに小さな祠と新宮党館跡がありました。昭和五十四年の発掘調査により、建物跡や溝、地下倉庫などが発見されたそうですね。
 屋敷跡地には尼子経久の次男国久、その子誠久、豊久、敬久の墓が置かれています。新宮谷を駆け抜ける風を顔に感じながら、そっと手を合わせたのでした。
 そういえば別の話ですが、晴久によって殺されていった新宮党の生き残りが永禄九年(1566)の尼子氏滅亡後に、尼子再興のためにたちあがった尼子勝久でしたね。
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