歴史
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文明十一年(1479)7月、太田道灌は千葉良胤を援け、臼井に籠る千葉孝胤討伐のため、この地に城を築いたのが国府台城の起りと伝えられている。その後天文七年(1538)10月足利(小弓公方)義明は里見義尭をはじめ、房総勢一万余騎を率い、北条氏綱の従える二万余騎と、この地で対陣した。このとき江戸川を渡って進出した北条軍を迎え、義明は激闘のすえ戦死し、房総勢は敗退した。この合戦から26年後、永禄七年(1564)正月、里見義尭の子義弘は、兵八千をもってふたたび国府台に出陣し、北条氏康、氏政父子の二万余騎を迎え討った。里見軍は緒戦において大勝をえたが、翌朝里見勢の油断をついて国府台城に攻めこんだ北条勢のため、城中は大混乱に陥り、たちまち五千の戦死者を出し義弘は安房に敗走した。以後、この地域は、この地域は北条氏の支配するところとなった。天正十八年(1590)徳川家康が関東を治めるや、国府台城は江戸俯瞰の地であるところから廃城となり家綱のとき関宿より総寧寺を移した。その後明治に至って、陸軍の兵舎が立ち並ぶ軍隊の街となったが、昭和三十四年(1959)この地を公園とし、里見公園となづけた。現在園内には二重に囲まれた土塁とその間に残る空濠の跡を窺うことができる。これは天文、永禄の合戦に里見軍の構築したものと思われる。数千の戦死者を出したこの合戦に後世里見将士の霊を慰めるため三基の慰霊碑が建てられた。
『国府台城跡案内板』より
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