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曽谷城跡
登城日:(2001.08.25)
所在地: 市川市曽谷3丁目21−2
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 曽谷城跡  昔、この辺り一帯は「曽谷殿屋敷」または「曽谷殿館」と呼ばれ、曽谷一族の居城のあった所です。現在では台地が崩され、わずかに石井氏宅の裏庭に、土塁と空堀の一部が残されているだけで、曽谷城の全容を知ることはできません。
 曽谷城主については、曽谷重胤が千葉介胤鎮から、曽谷村の近在3000町を与えられ、城主になったのがはじまりと伝えています。この重胤の孫に当るのが曽谷教信で、かれは日蓮聖人に帰依して、法蓮日礼の法号を給わり、建立したのが長谷山安国寺です。
 その後、一族の末裔である曽谷胤貞は、足利尊氏とともに九州に向い、多々良浜の合戦で武功をあげましたが、下総へ帰る途中、即ち建武三年(1336)三河国(愛知県)高橋の合戦で討ち死にしたため、曽谷城もこの時に落城し、曽谷一族はのち、康正二年(1456)に至って滅亡したと伝えています。
 この城中に「烏石」のあったことが、鈴木金堤の著「手ぐりふれ」に、次のように書かれています。
 「曽谷村は千葉介の一族曽谷殿の館跡也しとぞ、館跡に曽谷殿の愛石なりとて、青き石の紋に黒く烏の形あざやかにあらはれて、烏石と云伝へしを、烏石を乞もとめひたすら愛し、後に東海道鈴の森の鎮守の社地に安じたるよし・・・」
 現在、東京都大田区にある盤井神社にこの烏石が残されています。烏石は江戸で名うての書家、松下雨石のことで、この烏石を見て以来、雨石の号を烏石と改めたといいます。

『曽谷城跡案内板』より

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資料  

私見  「房総の古城址めぐり、下巻」(有峰書店新社刊)によるとこの曽谷城跡の所在地がとても詳しく載っています。楽勝だなと思って住宅地のなかを徘徊していましたがなかなかたどりつきません。3丁目ってやたら広いぞ。何丁分もあるって絶対・・(笑)。
 ってそうこういってるうちになんとかたどり着きました。ま、結局一番の高いところに城址があったのですが、まぁ考えてみればそうですね。完全に住宅地に埋没してしまって遺構も何もありませんが、ここにたどり着いただけで何故か達成感を感じてしまいました。
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