天正の世、天下統一を目指す織田信長は、中国地方の戦国大名毛利氏を攻めるため家臣の羽柴秀吉を総大将として毛利攻めの軍勢派遣させました。その進攻ルートにある播磨武者らは当初、羽柴勢に加勢し毛利を攻める姿勢を見せていたのでしたが、東播磨を領有する三木城主別所長治との交渉が決裂するや、別所方播磨武者は一同毛利方につくこととなります。そしてそれは天正六(1578)年六月、織田方との間で繰り広げられる『三木合戦』の幕開けとなるのでした。
『三木合戦』は、別名「三木の干殺し」と呼ばれ、天正八年(1580)1月までの約1年8ヶ月、羽柴秀吉は三木城を力攻めにせず兵糧攻めで三木城を攻撃しました。地の利を活かした播磨勢の予想以上の反撃を警戒したことによるものだったか、はたまた本来の目的である毛利との決戦のために体力を温存する為だったのか・・。秀吉は三木城を裸同然とするため、各地に点在した別所方の城を確固撃破し徐々にその包囲網を確たるものとして形成していきました。なかでも特筆すべきは総数30以上にも数えられる付城、陣城とそれらの間に巡らされた多重土塁の構築でした。三木城を遠巻きにして水も漏らさぬ布陣をここまで形成した例は全国的にも極めて珍しいことでしょう。
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