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赤塚城跡 登城日:(2001.11.24) 所在地: 板橋区赤塚5丁目 |
歴史 |
◆赤塚城跡と徳丸ヶ原
赤塚城跡は、この公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡です。現在は、大部分が都立公園となっており、城山、お林山などとも呼ばれています。 ここは、康正二年(1458)に千葉自胤(よりたね)が入城したと伝えられ、現在でも空堀や土塁の跡を見ることが出来ます。北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの谷のしみだし水をたたえています。 城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ヶ原と呼ばれた原野でした。ここで天保十二年(1841)、高島秋帆が洋式の砲術訓練を行ったことが、高島平の地名の由来となっています。明治時代以降は開墾され、徳丸田んぼと呼ばれる一面の水田地帯となりました。この時溜池の水は、灌漑用水として利用されています。 高島平団地の開発が始まったのは、昭和四十年代に入ってからのことです。 ◆武蔵千葉氏と赤塚城跡 下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正二年(1456)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(現台東区)へ入城しました。 寛正四年(1468)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。 その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年(1590)まで精力をふるいました。 城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分がニの郭、そしてその西側が三の郭とする見解もありますが、正確なことはまだ明らかになっていません。 『赤塚城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
都営三田線西高島平駅を降り、板橋区立美術館を目指します。すると溜池が見えてきますから、そのあたりが赤塚城跡です。溜池には驚くほどの釣り人が集まっていました。たいした広さの池でもないのにいったい何が釣れるんでしょうねぇ。
まぁそれはおいといて、その池の奥には比高10数メートルほどの丘があります。そこをあがっていくと平坦な公園が広がっていました。赤塚城の本丸跡です。公園なかばには城址碑がおかれ、またさらに奥には少しではありますが、土塁が残っています(おそらく・・)。 なんかこの城跡・・梅林化されたり・・整地されたり・・その運命も風前の灯火のような印象を受けました。郷土資料館のまん前にある城跡とはとても思えないほどの扱いだったのですけど・・(笑)。
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