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平塚城跡
登城日:(2001.09.29)
所在地: 東京都北区西ヶ原1丁目、平塚神社
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 平塚城跡である平塚神社  平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。
 平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を立てて安置したと伝えられています。これが本殿裏側の甲冑塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(1478)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。
 江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興した。

『平塚城跡案内板』より

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資料  

私見 進入禁止が嘆かわしい甲冑塚  平塚城はJR京浜東北線「上中里」駅を降りて西側の坂道を登ること1分ほどで平塚神社の社殿へとつながる階段があります。そこを登ると平塚神社の境内です。まわりを見渡してみても特に神社以外のなにものでもないのですが、実は社殿裏には甲冑塚と呼ばれる塚があるようです。いかにもなにかありそうな土がこんもりと盛り上がっているのが確認できるのですが、残念ながら柵によって進入を禁じられていました。人気のない神社だったら柵を超えていたかもしれませんが(笑)、ここって結構参拝客がいたんですよ。女子高生が連れ立って真剣にお願いにきてたり・・・。私もってことで手をあわせて神社をあとにしました。
 帰りはそのまま上中里駅へとは戻らず、そのまま神社正面を抜けて王子駅方面へ歩いていきました。そのおかげで正面には平塚城跡に関する説明が書かれているのに気付きました。
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