歴史
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浄泉寺は戦国時代末期のころ御霊山浄泉寺城と称し近藤砦とも呼ばれていました。天正初年、八王子城主北条氏照の家臣、近藤出羽守助実公が、この寺を創建されました。過去帳によると龍洞院殿一渓浄泉大居士、天正十八年六月二十三日寂すと記されていることから浄泉寺の開基とされております。また寺をお開きになった僧は入間郡久米村(現、所沢市)永源寺の末、当時開山、獄應儀堅禅師(天正十五年十月十七日寂)であります。この寺の二世、照鑑圓禅師(慶安1648−1658)は、当時は十石の御朱印を賜っていた名僧でもありました。
この寺と武士とが関わった歴史は古く、今から九百年前、平安末期に醍醐天皇の系統貴族の子孫、鎌倉権五郎景政という武将が本拠を構えておりました。しかし、三年の役(1086−1088)1083年の時、景政は右目を矢で射られ、それでも敵を追い払い、又矢を抜こうとする者に「無礼者、弓矢で死するは武士の道」と叫んだことは有名で、諸行無常にして景政は寛治元年(1087)九月九日三十三才で無念なる人生を閉じたのでした。勇敢な武将として讃えられその景政をまつる神社が寺のすぐ下にあり当時は寺の守護神として建てられ明治に入り神仏分離によって絶学天真禅師ご親筆により御霊山を釈尊山と山号を改めまた御霊神社を明神様と称するようになったのであります。浄泉寺は武将の館に相応しく、周囲には川が流れて人の往来をさえぎりやすく、その上、切り立つような丘のため、城砦としては申し分のない場所であったのです。今も土塁(土盛り)や空堀の跡が残された歴史ある古いお寺でございます。
『浄泉寺城跡案内板』より
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