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南町奉行所

南町奉行所跡


登城日:(2012.06.12)
所在地: 千代田区有楽町2丁目
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
南町奉行所跡  江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保二年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。
 南町奉行所は、宝永四年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成十七年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
 再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業所内でベンチなどに活用しています。

 南町奉行所跡から発見された穴蔵
出土した穴蔵の木枠  この板枠は、ここの再開発に伴う遺跡発掘で発見された「穴蔵」を、壁に立てて展示したものです。この穴蔵は、江戸時代中期の南町奉行所内に掘られてた地下室で、なかから伊勢神宮の神官が大岡忠相の家臣に宛てた木札が出土しました。また遺構両脇の木製ベンチには江戸時代の水道管(木樋)を、向かいの石のベンチには奉行所の石組材を再利用しました。
 穴蔵の構造は、厚い板材を舟釘で留め、隠し釘となるように端材を埋め、板材の間には槙肌(木の皮)を詰めて防水処理をしています。また、壁板の一辺には水抜き穴があき、そこから竹管が延びて桶に水が溜まる構造となっています。
 ここがかつて町奉行大岡越前守がつとめた南町奉行所(東京都旧跡)であったことや、江戸時代の技術などを伝えるために設置しました。

『南町奉行所跡案内板』より

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資料
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私見
石材も再利用されています。  JR「有楽町」駅を北側に出ます。この辺りが”大岡裁き”で知られる大岡越前守がいた南町奉行所の跡だったのですね。地下に降りる階段の裏側に回り込みますと石材が並べられていますが、明らかに遺構の一部ですね。なんだか私だけが写真を撮っているのが恥ずかしくなるくらい誰も気にも留めていませんよ。
 そして地下に降りてみますと、明らかに不自然なベンチが置かれています。中央で目立っているのが穴蔵の板枠の遺構ですが、今では不自然ではありますがオブジェのように再利用されていますね。なかなかサラリーマンがどいてくれないので撮影できませんでしたが、ベンチとしての第二の人生を全うしている板枠や木樋たちを遠くから眺めているのも不思議な感じでした。
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