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足利氏館跡登城日:(2012.07.07) 所在地: 足利市家富町、鑁阿寺 |
歴史 |
足利義氏は当山開基足利義兼の三男で足利三郎と称し、父義兼の後を嗣ぎ北條時政の女を母とし泰時の女を妻とした。蔵人検非違使に任ぜられ正四位下左馬頭にいたり鎌倉幕府の枢機に参画し数次の合戦に大功をたてた。 父義兼の菩提のため、天福二年(1234)現在の重文大御堂を建てたことは現存する棟札によって明らかである。又堀の外大日境外に東に六字院・不動院・普賢院・東光院、西に金剛乗院・千手院・竜福院・安養院の塔中十二ヶ院を建立し千手院を塔頭とした。明治四年(1871)の廃仏毀釈により十二ヶ院が廃せられ、一般民家に解放される迄六百余年この山地は続いた。今の家富町全域がこれである。 仁治二年(1241)五十三才で出家し足利左馬入道と称し建長六年(1254)十一月二十二日66歳で卒した。本城三丁目にある法楽寺は義氏の開基であり同寺に義氏の墓地がある。諱を法楽寺殿正義大禅門という。 義氏五代の孫足利尊氏に至って天下を平定し京都に幕府を開き、室町文化の華を咲かせたことは普く人の知るところである。 楼門は当山では仁王門又は山門ともいう。開基足利義兼公が建久七年(1196)創建せるも室町時代兵火にあい永禄七年(1564)足利幕府十三代将軍足利義輝の再建である。構造雄大、手法剛健、入母屋造、行基葺き。両側の仁王尊像は此の建物より古く鎌倉時代運慶の作といわれている。 反橋は俗に太鼓橋といい江戸時代安政年間の再修である。 当山境内は面積一万二千三百坪(40,467平方メートル)四周に濠と土塁をめぐらし四門あり。 当山開基足利義兼公の祖父源義国(八幡太郎源義家の子、足利・新田両家の租)が別業として平安時代末に構築せるものにして上古の豪族の居館を原形のまま今日に残したもの。実に近世城郭の原始を示しており、足利氏宅趾として大正十一年国が史蹟に指定した。 楼門及び反橋は栃木県指定文化財である。 真言宗大本山 金剛山鑁阿寺 国竹城は、有地清元によって築かれ以後は有地氏の本拠として存在していたようである。後に有地氏三代目の元盛が相方城を築城したあとも、居館として使用されていたという。 鎌倉時代初期、建久七年(1196)足利義兼の建立。 本尊は源氏相伝の守本尊、大日如来、建築は構造雄大、手法剛健、本瓦葺唐様と和様を加味した折衷の代表的な建物で堂内の柱、天井、厨子等の価値は高い。 明治四十一年、国宝に指定され昭和八年より二年間、解体修理を文部省の指導の下、実施した。 戦後、法令の改正により重要文化財の指定を受く。 境内に山門、鐘楼、不動堂、一切経堂、多宝塔、御霊殿等の七堂伽藍を備えた東国の密教の代表的な寺である。 創建以来、幸い火災にあわず多数の重要文化財を蔵している。 開基、義兼七世の孫は足利尊氏にして京都室町に幕府を構え、幕府は十五代二百三十年続いた。、大祭は五月三、四、五日、十一月三、四日、初詣、節分鎧年越等、厄除・開運の祈願寺として参拝者が多い。 足利大権現と称し、俗に赤御堂とも云う。正和年間(1312)の当山伽藍配置図にも境内西北に描かれている。 創建は鎌倉時代といわれるが、現在の建物は徳川十一代将軍家斉の寄進によって再建された。本殿に源氏の租を祀り、拝殿に県指定文化財足利十五代将軍像を祀る。昭和三十二年境内整備のため以前の位置より北へ十二間後退させた。本殿の裏に当山開基足利義兼の父、義康祖父、義国の墓あり。昭和五十七、八年度栃木県及び足利市の助成を得て(株)安田工務店に依頼して半解体修理を実施した。 当山開基、足利義兼の子、足利義氏は父の建てた鑁阿寺維持の為、堀の外に十二の支院(塔中十二坊)を鎌倉時代に建て、その筆頭(塔頭)を千手院とした。此の門は千手院(現在の足利幼稚園)の門で弘化二年卅九世学頭來昌上人の再建である。 明治四年千手院を除いて塔中十一支院を明治政府に上地後、大正七年四十二世学頭忍空上人は此の地に此の門を移建した。 薬医門としては、規模雄大にして典型的な江戸末期の形式を有している。 昭和六十二年、足利市重要文化財の指定を受く。 向う側の東門と共に栃木県指定の文化財である。 本瓦葺、切妻造り、四脚門。開基足利義兼の創建といわれるが、永享四年(1432)公文所奉行の再修になる。 形状簡古、手法稚朴、正に鎌倉期の武家造りの剛健な風格がしのばれる。 昭和三十二年、国の助成を得て文部技官杢正夫の指導で解体修理を実施した。 開基足利義兼公の創建といわれるが、永享四年(1432)公文所奉行の再修になる。 本瓦葺、切妻造り、四脚門で形状は簡古、手法稚朴であり、鎌倉時代の武家造りの剛健な風格がしのばれる。正和年間(1310年代)の当山伽藍配置図にも東西の両門が描かれている。 昭和三十二年、国の助成を得て文部省杢正夫の指導で解体修理を実施した。 この社は、足利家守護として古くから崇敬されていたものです。 祭神は菅原道真公で学問の神として人々の厚い信仰を集めております。 建久七年(1196)に足利又太郎忠綱が思いもよらない嫌疑をきせられ無実の罪がはれるよう祈願のおり、天満宮の社前に逆さに刺したまま置き忘れた鞭代りの藤の枝が芽をふき大木になった事から「逆さ藤天神」と呼ばれるようになりました。 足利忠綱は武勇の士で十七歳の時に平清盛から戦功を認められ上総介に任ぜられました。 『鑁阿寺案内板』より
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資料 |
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私見 |
なかなか行けなかった足利氏館にようやく行ってきました。現在は鑁阿寺となっている同館ですが、完全にお寺ですね。一辺約200メートルのやや台形がかった方形の寺域には土塁と水濠がめぐらされています。平安末期から鎌倉初期における土豪武士の居館が今なおよく残されているというのがここのポイントなんでしょうね。 南側から反橋を渡って、境内へ。広大な敷地内には本堂、鐘楼、一切経堂などの国指定重要文化財をはじめ、栃木県指定重要文化財が目白押しですね。お寺好きだけじゃなくても楽しめそうです。私は・・・正直そこまで盛り上がれないのですが(^^;、東西南北に配置された門には惹かれました。南にある山門は足利義輝が再建したとされるもので、さすが寺内一の規模と手がかかっているのがわかります。そして次に東西の四脚門は、一山十二坊図にも描かれているものとして鎌倉時代の武家門を今に伝えています。最後の北門は千手院の山門が移築されたものですが、大きな薬医門が見事です。 いやぁ、これらの門だけでも十分満喫できますねぇ。しかし、東、北、西と自由に車が門をくぐっているのには驚きでした。重要文化財なのにいいんですかその扱いは?!ちなみに駐車場は9時から16時の間は北門から入って1時間以内だったらOKですよ。それだけあれば十分ですよね。
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