芳賀城跡 登城日:(2003.05.05) 所在地: 真岡市台町字城内 |
歴史 |
真岡城(芳賀城)は、宇都宮氏との縁戚関係にある芳賀氏(清原氏)の居城である。芳賀氏は益子の紀氏とともに紀済両党と呼ばれ、太平記にも「元より戦場に臨んで命を棄てること塵芥よりもなお軽くす。」とその勇猛さを称された名族である。 真岡城の築城には 貞治元年(1362)十五代 高貞築城説(続群書類従) 天文元年(1532)二十一代高経築城説(広沢家古記録) 天正五年(1577)二十三代高継築城説(下野国誌) の三説があるが、高貞が御前城(真岡市田町・現真岡東中学校)から移転築城し、高継が後北条氏の侵攻にそなえ堅固な城郭に改築したと考える説が有力である。 廃城は、宇都宮家が豊臣秀吉によって改易された慶長二年(1597)で、最後の城主は高武である。 寛文十一年(1671)十一月の『稲葉美濃守様芳賀郡御領分村々明細書上帳』によると、総回り十四町十二間(1534メートル)、東五町四間(548メートル)、西四町(440メートル)、北二町(216メートル)とあり、五角形の城であった。 現在の大通りは城と町を区切る掘であったが、明治以降拡張し掘り下げられたものである。 『芳賀城跡案内板』より
|
資料 |
私見 |
芳賀城(真岡城)は、現在は城跡公園として存在います。遠くまで見渡すことができる高台にあり、城域は公園だけではなく、隣接する真岡小学校も含まれるようですね。あまり見るところはなさそうなのでここはさらっと次へ向かいました。 ちなみに、廃城後は江戸幕府の代官所として明治まで機能していたということですから、どういった形で残っていたんでしょうね。興味あります。
|