唐沢山城跡 登城日:(2003.05.04) 所在地: 佐野市安蘇郡田沼町 |
歴史 |
唐沢山城は、佐野市の北、高さ240メートルの山全体をいう。往時の広さ550町歩と云われ、周囲を急崖にかこまれ、眺望は、関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父、南アルプス、秀峰富士、東に筑波と、まことに自然の要塞である。 当社御祭神 秀郷公により一千年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱を鎮定し大功をたてられ、その功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで威勢を張られた。その後700年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として十六世紀中ごろに現在の形を整えたとされている。関東七名城の一つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかがわれる。 江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換となって、唐沢山城の歴史が終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され四季おりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。 ◆大炊の井 築城のさい厳島大明神に祈請をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとの事である深さ久メートル直径八メートルあり今日まで水がかれたことがない 『唐沢山城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
いたるところに見事な石垣が積まれているのを見ることができる唐沢山城ですが、実は明治になって唐沢山城神社の建設の際に一緒につくりあげたものも含まれているんです。よく見ないとあとで損した気分になりますよ(笑)。 さて各所にある案内板ですが、藤原秀郷公についての記述はありますが戦国時代についての記載がありません。上杉氏と北条氏の2大勢力にはさまれた形で存在していた佐野氏でしたが、佐野昌綱の代に、末子を謙信の養子とすることで上杉氏と手を結ぶことになりました。以後、北条氏からの攻撃も見事に防ぎ唐沢山城を維持していたのですが、やがて佐野一族内部の分裂が生じ、北条方となりました。 天正十八年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めにより北条氏が滅亡すると、唐沢山城には秀吉の武将、富田知信の次男信吉を養子に迎え、旧領3万5千石を安堵されることとなりました。現在の高石垣はこの時代に多く建設されたようです。 慶長七年(1602)に江戸に大火がおこり、佐野信吉はいち早く江戸に火事見舞いに駆け付けたのですが、それが家康を激怒させることとなりました。「江戸を見下ろすとはけしからん!」。それにより佐野氏は信濃に配流。唐沢山城はその長い歴史を終えることとなりました。 本丸や南城をとりまく高い石垣や深い掘り切りは実に見事で、さすがは関東七名城といった印象です。今回は駆け足でしたのでもう一度時間をかけてゆっくりと巡ってみたいものです。
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