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鷲城跡
登城日:(2002.11.09)
所在地: 小山市大字外城、鷲神社
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 見事に残る土塁、虎口付近  康暦二年(1380)から永徳元年(1382)にかけて小山氏10代の義政は、3次にわたって関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。「小山義政の乱」と言います。
 この乱の原因は、勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが、小山に攻め寄せました。最初の蜂起で館(神鳥谷の曲輪か)を攻められた義政は、二度目の蜂起となる康暦三年には鷲城に立て籠もって戦います。しかし義政は結局敗れ、その翌年粕尾(粟野町)で自殺しました。
 鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、中城と外城との二つの郭からなり、当時としては広大な城郭でした。中城の空掘・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座しています。南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのはきわめて稀な例で、貴重な史跡と言えるでしょう。

『鷲城跡案内板』より

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資料  

私見 空掘底から土塁を見上げる  小山駅から歩いていける距離にいくつか城跡があるのですが、この鷲城もその1つです。思川のなかに食い込んだような地形で、約2/3ほどを川に守られた鷲城は見事な遺構が数多く残っていました。
 鷲神社が建つあたりを中城、大きな土塁と空掘で仕切られた先に外城という2つの郭から構成されているのですが、現在もその構造をそのまま確認できているのではないでしょうか。
 鷲神社の参道入り口が3箇所ある虎口の一つであり、それをまっすぐに神社の社が建つところまで進みます。途中右手に低めの土塁と空掘が確認でき、また左手側には2m以上の高い土塁が奥まで続いています。まさに堅牢な城であることがよくわかります。
鷲城の地形  一番奥にある虎口を降りていきます。土塁が続き、そして掘底道までつながっていました。そこから土塁までの高さは5〜6mほどでしょうか。自分がすっぽり空掘の中に入り込んでしまっている状態はまるでここが奥深い山城であるかのような錯覚に陥ります。まさかこの土塁を一つ越えた先には民家が建ち並ぶ集落があるなんて想像できませんよ。
 南北朝時代からのものがここまで保存されているなんてほんと感動モノでした。
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