宮崎城跡 登城日:(2003.05.24) 所在地: 下新川郡朝日町宮崎 |
歴史 |
寿永元年(1182)京都を脱出した北陸宮は、木曽義仲に属する豪族宮崎太郎長康に護られて宮崎に居住し、八幡山(この城山)に御所を造営せられた。 これが宮崎城のはじまりで、この後皇位継承の望みを絶たれた北陸宮の入洛後は、承久の変(1221)の戦場となり、戦国末期は上杉方、佐々方の武将も居城し、安土桃山時代には前田家が家臣の高富、小塚などの武士を配していた。江戸時代に入り、境関所の整備に伴い廃城となったが、宮崎城跡は県下最古の山城の一つに数えられている。 戦国の時代には相当拡張され、10間(約18メートル)に8間(約15メートル)のこの場所を本丸と呼び、これより4間(約7.5メートル)低い20間(約36メートル)に30間(約54メートル)の平地を外郭としました。外郭の南に2間(約3.5メートル)に3間(5.4メートル)の矢倉台東に2間(3.6メートル)低い所に井戸があいました。 本丸から西に2段低い15間(約27メートル)に18間(約33メートル)の平地を二の丸と呼び、その西続きに石垣が今なお残存しています。 さらにその西続きにある18間(約33メートル)に24間(約44メートル)の平地を三の丸と呼んでいます。 『宮崎城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
国道8号線から城山公園の標示を頼りに脇道にそれ、そこからひたすら上へ上へとあがっていきます。道幅は広くないのですがあらかじめそれを想定して車幅の狭い軽をチョイスしていたので楽勝です(^^)V・・って良いことばかりはなく、パワー不足でなかなかのぼってくれないのには困りました。 なんとか駐車場までたどり着き、そこから城山公園内を散策します。三の丸から二の丸へと続く通路は両脇が崖となっており山頂部の地形を城地に取り込んだものであることがよくわかります。また、本丸がある先端部には丸く広がっており、一段高い本丸跡に上ると周囲300度以上の眺望を拝むことができるようになっています。遥か下に見える日本海の展望には疲れが吹っ飛びますね。 案内板にあった残存する石垣というのはよくわかりませんでしたが、本丸の周囲を形成している石垣もまわりの雰囲気と違和感なく、なかなかいいと思いますよ。
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