魚津城跡 登城日:(2003.05.24) 所在地: 魚津市本町、大町小学校 |
歴史 |
魚津城の築城年代は明らかではないが、角川の河口近くに築かれており、室町時代に新川地方の政治的・軍事的中心であった松倉城への重要な交通ルートの押さえとして築かれた支城であったと考えられている。 天正十年(1582)三月から上杉方の越中における拠点であった魚津城を織田方の柴田勝家、佐々成政、前田利家らが攻め、本能寺の変の翌日の六月三日に落城している。 その後、加賀藩の支配下となり、江戸初期には廃城となったが、武器庫や米蔵が置かれ万一に備える一方、城外に奉行所や郡代が置かれ、新川郡の政治的・軍事的中心として栄えた。 天明五年(1785)の魚津町惣絵図には本丸とそれを囲む二の丸が描かれており、明治頃までは堀や石垣が残されていた。 ◆青山佐渡守墓石 佐渡守は天正末年に婦負郡城生城主から魚津城主として赴任し魚津城を築いた。知行一万七千石を持ち前田家の重臣で魚津城にあっては新川郡をおさえ越後の上杉氏に対抗していた生来信仰心厚く照顕寺を建て菩提所とし神明宮の造営にも力を尽くし地方産業の発展に大いに意を用いた。 この墓は市内住吉にあったが圃場整備のためこの地に移した。 『魚津城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
魚津城は現在の大町小学校になっています。小学校の中に城址碑があるのは知っていたのですが、入っていいのだろうか・・と恐る恐る小学校に近づいていきました。 すると校外から見えるところに「魚津城址碑」へと導いてくれる標識がでています。いいのかなぁ・・と少々びびりながら校舎を曲がったところに城址碑がありました。偶然そこには先生が!(驚)「あの、写真とらせてもらっていいですか。」と怪しくないぞオーラをだしつつ(笑)、優しい先生の快諾にすっかり安心してしまいました。 現在学校内に置かれている魚津城址碑の土台を形成している巨石こそ、当時の石垣になっていた石だそうです。>先生感謝。 ほんと笑い事じゃないですが、学校が城跡になっているところを訪問する際は十分配慮をもった行動を持ちたいものです。 全然話は違いますが、偶然にも天神山城がある山の中腹には魚津城の城主であった青山佐渡守の墓石を見つけることができました。
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