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太田城跡 登城日:(1999.11.21) 所在地: 和歌山市太田、来迎寺 |
歴史 |
ここ来迎寺は、岡山県高松城、埼玉県忍城とともに日本三大水攻めのひとつに数えられる戦国時代の太田城の本丸跡と伝えられる場所である。城の範囲は、現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西二百五十メートル、南北二百メートルで周囲に深い堀をめぐらし、東に大門をもっていたとされる。 天正十三(1585)年、豊臣秀吉の紀州攻めに際し、太田党は太田左近宗正を大将として、約五千人が太田城に立てこもり、十万余人の秀吉軍に対して強く抵抗したため、秀吉軍は城を取り囲む総延長五−六キロメートルにも及ぶ堤を築き、水攻めをおこなった。攻防一ヶ月、ついに左近ら中心人物五十余人の首を差し出すことを条件に他の者が助命されたとされる。 ここから北東約五十メートルには、戦いにより亡くなった者を葬った小山塚、北東約二百五十メートルには太田城の大門があった場所とされる大門櫓、北東約七百メートルには水攻めの際に秀吉軍が築いた堤跡が残っている。なお、西約一キロメートルの市内橋向丁の大立寺の山門(和歌山市指定文化財)は、この太田城の大門を移したものと言われている。 『太田城跡案内』より
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資料 |
参考資料、新人物往来社『日本城郭体系10』より
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私見 |
秀吉が水攻めを行った城として有名な太田城が現在どのような姿になっているのかに興味を抱いて、探してみましたが、あるのはお寺に城跡を示す城址だけでした。ま、水の下に沈んで落城したのですからそんなものなんでしょうか。平城であることに加え、和歌山城が出来たことでこの太田城の役割は何の意味もなさなくなってしまったってことのほうが大きいのかもしれません。
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