![]() |
![]() |
Check
![]() |
![]() |
和歌山城跡 登城日:(1999.11.21→2007.01.19) 所在地: 和歌山市一番丁 |
歴史 |
![]() ![]() 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで軍功のあった浅野幸長が三十七万六千石を領して和歌山城の城主となり、桑山氏は大和布施に移封された。浅野氏は十九年間の在任中に、二の丸部分を整備させたり、一橋門を大手にするなどその後の基礎となる築城工事を次々に行った。 元和五年(1619)、浅野氏は安芸国広島へ移封され、徳川家康の第十子徳川頼宣が五十五万五千石を領して入城した。以後和歌山城は、御三家紀伊徳川家の居城となり「南海の鎮」として、幕府の西国支配の拠点という新たな役割を担うことになる。頼宣の入城の際には銀二千貫が支給され、入城直後から和歌山城の大規模な整備工事や城下町の拡張整備が実施された。これらの政策はその後二百五十年間続く和歌山の繁栄の基礎となった。 ![]() ◆本丸◆ 本丸は標高48.9mの虎伏山(海上から見た形態が虎の伏した姿に見えることから虎伏山と呼ばれる)の頂に位置し、東部の本丸御殿と西部の天守郭(曲輪)で構成されている。 本丸御殿は、浅野期には二の丸と呼ばれ藩主の日常生活が営まれたが、徳川期以降はその機能を失い空御殿になった。天守郭は、大天守・小天守・御台所・乾櫓・二の御門櫓・楠門を多聞で連結し、楠門を閉じると要塞化する連立式天守の形態をとる。 江戸初期の天守は、弘化三年(1846)の落雷により焼失した。幕府は通常、城郭再建を許さなかったが、和歌山城は御三家紀伊徳川家の居城であったため特別に許可され、4年後の嘉永三年(1850)に「有形の通」に再建された。 この再建天守は、昭和二十年(1945)に戦火を蒙り、再び焼失してしまった。その後10数年間は天守台のみの姿であったが、和歌山城再建を望む市民の熱意によって、昭和三十三年(1958)に鉄筋コンクリート造の天守が復元された。 ◆二の丸◆ 二の丸の機能は、藩の役人が職務を司る表と、藩主の公邸である中奥と、奥女中の三つに分けられる。 北東隅に月見櫓、北部に物見櫓、北西隅に駿河櫓を設け、それらを多聞と土塀で結んでいた。 ◆大手門◆ 浅野・徳川時代を通じて大手門(表門)として機能した。 当初は一之橋御門とよばれていたが、寛政八年(1796)に大手御門と改称された。 明治四十二年(1909)に自然倒壊し撤去されたが、昭和五十八年(1983)、一の橋と共に再建工事が施工され、高麗門形式に復元された。 ![]() 岡口門は、元和七年(1621)、徳川氏が搦手門(裏門)として建造したものであり、和歌山城内に残る数少ない江戸初期の建造物である。門は櫓門形式をとり、土塀を含めて昭和三十二年(1957)に国の重要文化財に指定された。昭和三十五年(1960)、解体修理が行われた。 『和歌山城パンフレット』より ◆御橋廊下◆ 御橋廊下は、藩主とお付きの人だけが二之丸と西之丸を行き来するために架けられていた橋で、屋根を設け、外から見えないように部屋の廊下のような作りになっていました。斜めに架かる廊下橋としては全国的にも珍しい構造です。 和歌山市では、和歌山城整備工事の一つとして、平成11年(1999)から御橋廊下復元工事のため史料調査や発掘調査を行い、堀底から礎石や瓦などが出土しました。これらの成果にもとづいて、御橋廊下が復元されました。 ![]() ![]()
|
資料 |
新人物往来社『日本城郭体系10』より
|
私見 |
![]() ここは城域内に動物園やら、名庭などがあって城に興味のない人を連れて行くにも都合がいいところですよ。って誰に言ってるんだろ。(^_^; ![]() 7年ぶりに和歌山城を訪れてきました。御橋廊下を見に行ったのですが、お昼頃に城に着いたので御橋廊下越しの天守の写真がちょうど逆光で撮れませんでした。ちょっと日が傾けばいい構図になったんじゃないでしょうか。それにしてもここはほんと絵になるお城ですね。ひたすら写真を撮り続けてしまいました。あとで以前撮ったものと比較してみましたが、ほとんど構図が同じだったのは自分の成長のなさにちょっと凹みましたけど・・(^^;
|