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浜崎宰判跡登城日:(2006.11.27) 所在地: 萩市大字浜崎町 |
歴史 |
◆旧萩藩御船倉 毛利氏が萩城を築いてまもなく築造したもので、奥行二十七メートル、間口八、八メートル、藩主の御座船その他水軍の船を格納した。もと左右に小船倉が二棟または三棟並び河水面に通じていた。明治以降この一帯は埋め立てられ、今は中央の大船倉だけが残っている。石垣、屋根などは旧態をそのまま伝えており、屋根を有する御船倉としては全国唯一のものである。 御船倉は萩藩の御座船を格納した場所である。慶長十三年(1608)に萩城築城後、まもなく建てられたと思われる。構造は両側と奥に玄武岩で壁を築き、上部に瓦屋根を葺き、前面は木製扉を有している。大きさは桁行き26.9メートル、梁間8.8メートル、高さ8.8メートル、石壁の厚さは6メートルである。現在大船倉が1棟残っているが、享保年間(1716〜35)作成の萩城下町絵図には3棟、天保年間(1830〜43)作の「八江萩名所図画」には4棟の船倉が描かれている。明治初年に北側の1棟、昭和37年に南側の1棟が取り壊された。 現在は明治以降の埋め立てのため河岸から離れた所になったが、往時は松本川に面して船が自由に出入りできる場所であった。 『浜崎宰判跡案内板』より
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資料 |
私見 |
周防・長門を領国とした毛利家では、萩藩領を宰判という行政区画を慶安三年(1650)から開始しました。周防国で九区、長門国は八区の宰判が設置され、各地に代官が配置されました。長門国の宰判は当島、浜崎、奥阿武、前大津、先大津、美弥、吉田、舟木となっています。ここ浜崎宰判では阿武郡内にある各島々の管理や阿武郡北側の岬や浜を領域としていたようです。 代官所であった御船倉は現在も1棟のみが残されているが、かつては当島宰判も同居していたということで、うーん・・当島宰判も行ったことにしたらいいのか悩むじゃないですか(笑)。
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