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大内氏館跡登城日:(2006.11.26) 所在地: 山口市大殿大路、龍福寺付近 |
歴史 | ![]() 大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は中国、九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人がこの館を訪れたことによって当時の山口は京都をしのぐほどの富と文化を誇ったといわれています。天文二十年(1551)大内氏三十一代義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡しました。 その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は弘治三年(1557)大内義隆の菩提を弔うためこの館跡に龍福寺を建立しました。 館は百間四方の掘と土塁に囲まれた中に造られていたといわれています。現在はほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹薮の中に土塁の一部を見ることができます。 ![]() ◆石組溝(いしぐみみぞ) 館跡の西辺の調査で石組の溝が見つかりました。溝底には水が流れた痕跡が見られたことから、排水溝であったと考えられます。この溝はここから少し南で西側に折れ曲がっています。溝は折れ曲がってしばらく西に行くと、西掘により壊されているので、この溝が機能していた時期には館の敷地はさらに西側に広がっていたものと考えられます。 この溝は1500年代前半につくられ、北にある西門がつくられる際(1500年代中頃)に埋め戻されたようです。 ここでは、発掘調査で見つかった石組溝そのものを展示しています。 ◆西門(にしもん) 館跡の西辺の著さで、小規模な門跡が見つかりました。この門は地面に穴を掘り、柱を据え付けて、その両側を石で押さえ安定させるつくりで、地面には砂利が敷かれていました。 この門は、屋敷地内における位置や大きさから考えて、正門ではなく、屋敷の中の区画を仕切る内門であったと考えられます。 発掘調査で発見されたのは、柱を据える穴と柱を両側から押さえる石と砂利敷きだけでしたが、江戸時代はじめの木割の秘伝書『巧明』や、この門とほぼ同時期の京都の風景を描いた『洛中洛外図屏風』などを参考にして答辞の姿を復元しました。 ![]() この庭は水を使わずに石や砂で水の流れを表現する枯山水庭園で、滝から滝壷に流れ落ちた水が建物の周囲を流れていく様子を表現したものです。 この庭は1500年代前半頃つくられ、1500年代中頃に火災で庭園としての機能を失いました。火災の後に庭石のいくつかは動かされ、また西側の一部は西掘の掘削により壊されました。 この庭がつくられた頃の当主は大内義隆と考えられ、大内氏の文化も最盛期を迎えました。そのため、この庭は華やかな大内文化を今に伝えるものといえます。 この庭は破壊を受けているものの、当時の姿を比較的良く残していることから、露出して整備することとし、石が抜けた部分には石を補充し、遺構が全く残っていない西部には土手状に盛土をして植物を植えました。 『大内氏館跡案内板』より
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資料 |
私見 | ![]() ![]() 当主がかわるたびに少しずつ改修されているというのも驚きですが、何よりもそこまでの精度でわかってしまう現在の技術力や担当の方々の探究心には驚嘆の念を禁じえません。 さて、駐車場に車を停め館跡を散策します。まず驚いたのは龍福寺参道脇に植えられた紅葉が身頃を向かえており、真っ赤や黄色のアーチを形作っていたことです。お城と紅葉は実によく似合いますね。というかお城には四季のどの季節にも合うといいますか(笑)。 ![]() 同寺をでて時計回りに歩いていきます。西側に回りこむと一帯は綺麗に整備されています。石組構、そして周りとアンバランスな印象を受ける西門、そして昼間しか拝むことのできない枯山水庭園などが続きます。非常に大事に扱われているんだというのはわかるのですが、あまりにもピンポイントすぎる復元にこれでいいのか・・と思ったりもします(^^;。とはいえ館跡自体がお寺の地下なのですからどうしようもないのでしょうけど。 館跡の西側には「築山跡」、そして山城で「高嶺城跡」が「凌雲寺跡」とともに大内氏遺跡附凌雲寺跡として国の史跡に指定されています。ぜひセットでめぐってみてください。私は雨天に泣かされ、高嶺城は諦めざるを得ませんでした。
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