岩殿山城跡 登城日:(2002.08.25) 所在地: 大月市賑岡町岩殿山 |
歴史 |
岩殿城は急峻にして険しい断崖をめぐらし、攻めにくく守りやすい戦国時代の難攻不落を誇る名城であった。 そのうえ南方の桂川下流には相模、武蔵、西方の桂川上流谷村、吉田、駿河、北方の葛野川上流には秩父などの山並みを一望におさめ、かつ烽火台網の拠点として、近くの国々の情報を即座に収集できる重要な場所に築かれている。現在この城跡には一番高く展望のきくところに本丸、その下に二の丸、三の丸、さらに蔵屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸などの建物跡のほか空堀、井水、帯郭、烽火台、馬場跡がある。 また、断崖の下にある七社権現、新宮などの大洞窟が兵舎や出丸として用いられ、兜岩から稚子落しへのルートは落城の道とされている。 これら多数の遺構は戦国時代の城郭史を研究するうえで貴重なものである。 ◆岩殿山 岩殿山は9世紀の末、天台宗の岩殿山円通寺として開創されたと伝えられる。10世紀のはじめには三重塔、観音堂、僧房その他の建物がならび岩殿は門前町を形成した。 13世紀になると、円通寺は天台系聖護院末の修道道のセンターとして栄え、その支配は郡内一円はもちろんのこと甲斐国中の山梨、八代の東部一帯、駿河国は富士郡付近まで及んだ。 16世紀に至り戦国大名領国制が成立する中で、武田、小山田両氏の支配を受け岩殿山は、岩殿城として、武蔵、相模に備える戦略上の拠点とされた。そして、1582(天正10年)武田、小山田の両氏が滅亡すると徳川氏により利用されたが、同氏の支配体制の確立された17世紀のはじめには廃城となった。 その後円通寺は、その塔頭である常楽、大坊の両院が法灯を伝えていたが、明治の初め神仏分離政策によりそのあとを断たれた。 現在東麓には、三重塔跡、常楽院ならびに大坊跡その他が、また山頂付近には空堀、本城、亀ヶ池その他の遺構が残され、これらは日本修験道史上、また日本城郭史上貴重な資料とされている。 1972年(昭和四十七)年10月、山梨県は岩殿山を「歴史景観保全地区」として指定した。平成七年には、山梨県の文化財に指定された。 『岩殿山城跡案内板』より
|
資料 |
私見 |
岩殿山城は武田勝頼を裏切った小山田信茂の居城だったことで有名ですよね。今ではメジャーなハイキングコースの一部になってるようです。駅から徒歩だと麓にくるまでで多少時間がかかるのでしょうが、私はバイクを登城口のそばに止め(こういうところがバイクのいいとこですね)、石段を登っていきました。 3分で休憩所に到着できますのでここで一旦体を休めて、いざ出陣とばかりに城攻めするのが王道なんでしょうか。山の中腹に建つ休憩所から見上げた岩殿山は今にも転がり落ちてきそうなほど飛び出した巨大な岩がすさまじい迫力です。 そこからの登城道はコンクリートで整備された階段と手すりがつけてあり登りやすくはなっているのですが、さえぎることのできない直射日光と、延々と続く傾斜の急な階段が遠慮なく体力を奪っていきます。 約20分ほどで揚城戸に着きました。岩が両側から押し迫った状態で狭くなっているところをうまく城門として使っていたんですね。こりゃぁ攻めにくいです、確かに。しかしそれを過ぎるとほぼ頂上です。すぐに本丸跡に到着します。そこから見える景色は最高、今までの汗を全て吹き飛ばしてくれるかのように心地よい風が頬をなでてくれます。 ちなみに私の脇を抜けてハイカー達は本丸がどうだとかいう感慨はないようで、そそくさと尾根伝いに歩いていきました。ほんとはこの先に稚子落しという名所があるんですけど、ちょっとそこまではきついのでやめときました。
|