[1527] 城めぐで車めぐ・・・ 投稿者:tani [中国] 投稿日:2008/08/12(Tue) 06:09
 こんにちはです
休日が取れたので、紀州攻撃に行ってきました。
8月7日 自宅5:30発佐用インターから中国道に乗り貝塚インターで下り岸和田城9:30到着
 外周も見て回ったが、中々見ごたえがありました。次は根来寺、その次はメインの和歌山城15:00到着
 まずは本丸へ、見慣れない種類の石で石積がしてあった、これは和歌山県独特の石かな、外周を見て回るが暑さでへとへとになる。
 2時間むっしり歩いたがさすがに見ごたえ有り、今日はこの近辺の風呂に入ってコンビニで車中泊
8月8日 紀三井寺参拝後、湯浅城、田辺城、安宅本城、八幡山城登城口確認のみ、
 途中観光しながら勝浦で温泉とコインランドリーに行く今日もコンビニで車中泊
8月9日朝一に那智の滝と大社、次は新宮城の駐車場に登って行くと、石畳と砂利道の段差でホイルとホイルキャップをこすった、
 この時大きな音がして車をめぐところだった。次鵜殿城近くまで行くが登城口分らず断念
 次は速玉大社・本宮大社十津川を通って五条・橋本・今日は山道の運転に疲れたので温泉に入って道の駅紀ノ川で車中泊
8月9日朝一に粉河寺参拝して一路山陰方面へ、やはり和歌山城が一番見応えがあったが、城から次の城まであまりに遠過ぎたが
観光もかねたのでとてもよかった、文章が下手ですいません

taniさんこんにちは。

紀州は同じ関西におりながら、なぜか縁遠いところです。
いつかの参考にさせていただきますよ(^-^

しかし、この暑い中「車中泊」ですか!!!
まさに漢ですねぇ。

私にとってはそれが一番の衝撃でした。

移動距離があるとあまりお城にいけないというのもよくわかりますよ。
でも夏場だとどこでも行けるわけじゃないので、
どこに行くかは難しい選択だと思います。

いやぁ車中泊2日、お疲れ様でした。(^^;

[1526] こんにちは 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/08/11(Mon) 14:40
昨日、畠山城に行ってきました。
でも、近くに轟城という城址があると、ネットで調べて言ったのですが、どこから上るのかがわからなくて、途中で引き返しました。情報などがあまりないので、なにかわかることがあれば、教えてください。
轟城のある四国中央市に住んでいるのに、こちらから聞くのはすみません。

http://www1.linkclub.or.jp/~part3/far/todoroki/todoroki.html

MASAYUKIさんこんにちは。

私もいったことないのですが、ここは参考になりますか?
http://sin456.s308.xrea.com/ehime/kawanoe/todoroki.html

南と北にわかれて郭があったようですが、今は高速道路建設により南側の郭しか残ってないのかもしれません。

写真を見る限りかなり藪ってるので夏場は難しいかもしれませんね。

[1525] お久しぶりです 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/08/08(Fri) 20:46
愛媛県はお城が結構多いんですね。
このほかにも、轟城などがあります。
お盆に、2度目の徳島城に行くのですが、見所などがあれば教えてください。
この前に、3000円ぐらいの、日本城郭事典という本を買いました。600以上のお城が載っていてすごく勉強になります。

http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/itiran_ehime.htm

MASAYUKIさんこんにちは。
私は先月26日に徳島城にいきましたよ。

そんなに特別見どころを探さないといけないような
ところじゃないと思いますが、暑くても山上まで
あがってきてください。

やはり石垣でしょ、ってことで。
本丸手前で右の斜面へ降りられるところがありますので
そこの石垣も見どころの1つだったと思います。

私は先に博物館に行ったのでそこでもらったパンフが
参考になりましたよ。

日本城郭事典を見てるといろいろと行きたいお城が増えたんじゃないですか?
わくわくされてるんじゃないでしょうか。

それでは。

[1524] 馬ケ脊城 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/08/07(Thu) 18:54
ぽにゃんさん、こんにちわー。

> 確かに私も作図しているときに織豊系の付城に似ている
> な…と感じました。

 作図?もしかして作図は馬ケ脊城の縄張図を作図されているのですか?
 えーーー、もしそーならばすごいですね。ネットに公開されているのならば、ぜひ見せてください。

 記事の内容から推察すると、

> 同構造の門は織田氏系統の砦によく見られることから、天
> 正5(1577)年、信長が信貴山城にこもる久秀を攻め
> る際、馬ケ脊城を砦として使った可能性が浮上。

 と書いていますように、信貴山城を攻撃する時に織田系の築城技術によって、

> そして北側には、くい違い状の虎口、南側には外枡形状の
> 虎口が開いていました。

 というよな改修がなされたのではないでしょうか?

> 日本地名学研究所編『片岡城跡:中世山城の研究』に片岡
> 氏家譜やその他史料、片岡城や片岡氏について詳しく書か
> れていますので御覧になってはいかがでしょうか。

 有難うございます。ただ、これは、

・片岡城跡 中世山城の研究 上牧町教育委員会(1984年)

 になりますでしょうか。いずれにしても図書館でチェックしてみます。

> 橿原考古学研究所ではなく、王寺町教育委員会が担当して
> いるので、王寺町のほうに問い合わせたほうが情報が得ら
> れやすいと思います。

 にぁははははは、その通りでした。
 電話したら、王寺町教育委員会に電話するように言われてしまいました。タッチの差でした。
 ただ、

・橿原考古学研究所

 でも発掘中の写真パネルは紹介しているそうで、

・斑鳩町   龍田城跡

 は、茨木城の片桐さんとも関係があると言われていますし、龍田城は見たことがないので、

9月6日(土)

 の説明会には参加しようかなー、と思っています。

> ネットサイトにも記載がありましたのでお城マークに入れ
> ておきますので、

 有難うございます。
 ただ、この写真片岡城ですよね。馬ケ脊城と同じ城なのでしょうか?

では、では。

http://photos.yahoo.co.jp/ph/i_bure/lst?.dir=/8425&.src=ph&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/ph/i_bure/lst%3f%26.dir=/8425%26.src=ph%26.view=t&.view=t


[1523] 鷹尾城の居館 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/08/07(Thu) 18:09
> 後ほど写真アップしておきますね。

 と書いていましたように、写真アップしておきましたので、見ておいてください。

 場所は、住宅街ですが、ま、どちらかと言えば高級住宅街で、僕が行った時はあまり見たい事ない外車が駐車していたりしていました。

 記事の内容にも、

> 平野部を一望できる立地のよさがそれぞれの時代で注目さ
> れたのだろう

 ということで、今も昔も、眺望がいいというのはセレブが住む条件になっているのかもしれませんねー。見晴らしはよく夜景は奇麗な感じはします。

 写真でご覧のように、今は完全に破壊されてしまっています。
 ただ、上部で、

> 円墳の周溝に接するように堀が出土した

 とありますように「堀」らしきもの、半分は埋め立てられていますが、ありました。しかし、

> 池や滝など庭園

 はもう消滅していましたね。残念。
 恐らく、写真に写っている重機方向の坂を利用して、滝を作ったのではないかと思います。

 ただ、現地を訪れて解ったのですが、

・三条岡山遺跡の居館跡

 で発見されたそれほど大きいのではなさそうという印象をうけました。まー、

・三条岡山遺跡の居館は、瓦林正頼のプライベートな居館の可能性が高いと推察できる

 との説明通り、多くても3家族程度が住むのにちょうどいい大きさかなー、という感じはします。となりの甲南女子にも居館跡が広がっていれば全然違ってきますけどね。

 取り敢えず、

・三条岡山遺跡の居館跡

 のご報告しておきます。

続きがあります。

http://photos.yahoo.co.jp/ph/i_bure/lst?.dir=/8425&.src=ph&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/ph/i_bure/lst%3f%26.dir=/8425%26.src=ph%26.view=t&.view=t


[1522] 片岡氏のサイトリンク 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/08/07(Thu) 10:54
アレッ!

お城マークのリンクがうまくないです…ね。
再掲します。

今度はうまくいきますように!

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kataoka.html


[1521] 馬坂城のことなど 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/08/07(Thu) 10:47
おはようございます

ぽにゃんさん、はじめまして
馬ケ脊(馬坂)城跡を二度も訪ねられたとか、
「百聞は一見にしかず」、貴重な訪城情報をありがとうございました。
7月17日に遺構が健在であったということは、
8月7日現在もまだ…でしょうか。
う〜ん…、であれば行ってもみたい気持ちが…。
検索してみると「馬坂城跡」のキーワードで、
ネットサイトでも幾つかの訪城記録が写真付きであり、遺構のイメージは何とか…。

馬坂は古い地名ですね、
城跡の北の丘にある王寺町唯一の天皇陵として、
古事記の第七代孝霊天皇の項に、その陵の地が「片岡馬坂上」と記されていますから、
飛鳥時代には既に片岡と馬坂という地名があったということですね。

また、王寺町の町名は、
現在、王寺小学校の西隣にある放光寺が7世紀頃に片岡王寺の名で王族によって創建され、
王寺小学校敷地に四天王寺式大伽藍の中心があったのだとか。
この伽藍も永禄3年の松永氏と片岡氏の戦いで松永氏の手で焼き討ちされ喪われたと。
この時の戦いで片岡氏支城の馬坂城も落ちたんでしょうね。

私見ですが、馬坂と馬ケ脊の関係は、馬坂が字名で馬ケ脊が小字名ではなかったか?
などと(笑)

片岡氏の出自と来歴について、
ネットサイトにも記載がありましたのでお城マークに入れておきますので、
よろしければご参照などー。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kataoka.html」


[1520] 馬ヶ背(馬坂)城について 投稿者:ぽにゃん [近畿] 投稿日:2008/08/06(Wed) 14:44
皆様、こんにちは。

馬ヶ背城には今年の1月10日、発掘調査後の7月17日の2回ほど訪れましたが、まだ破壊されておらず遺構がきれいに残っておりました。

ちなみ縄張りは、阿弥陀の住人様・ブレイズマン様の仰る通りでして、周囲を土塁・溝(溝は地表面観察ではみられず帯曲輪にみえました。)で囲み、折れが伴っている箇所もありました。また、土塁の北東隅は7m×5mの櫓台状になっていました。そして北側には、くい違い状の虎口、南側には外枡形状の虎口が開いていました。

一度めの縄張り図作成時にはわからなかったのですが、二度めに発掘調査後の城を踏査してみますと、北から東側にかけての切岸は高く(この城の場合で。溝底から約2〜2.5m程の高さ)、シャープで溝もしっかりしていたのですが、西から南側にかけては、比較的に緩く高さもあまりないように感じました。
土塁においては、曲輪内からみると、北半分から西側、南側のものが高くしっかりしていました。

確かに私も作図しているときに織豊系の付城に似ているな…と感じました。現状で史料での裏付けができないのが残念です。

あと馬ヶ背・馬坂のふたつの名前についてですが、「馬ヶ背」は、阿弥陀の住人様の書かれているとおり、近世に作られた史料『片岡氏家譜』(だったかな?記憶が曖昧ですみません)に「馬ヶ背」と記されているからです。しかし『片岡氏家譜』は一次史料でも二次史料でもなく編纂物であるので、史料的価値は低いといえます。注意して扱わなければなりません。「馬坂」というのは、城のあるあたりの地名からとってきたものと思われます。
この問題のきっかけは言ってよいのかわからないので、言うことができませんが、個人的には「馬ヶ背」のほうが良いように思います。

ちなみに日本地名学研究所編『片岡城跡:中世山城の研究』に片岡氏家譜やその他史料、片岡城や片岡氏について詳しく書かれていますので御覧になってはいかがでしょうか。


長々と失礼しました。


>ブレイズマン様
馬ヶ背については橿原考古学研究所ではなく、王寺町教育委員会が担当しているので、王寺町のほうに問い合わせたほうが情報が得られやすいと思います。

ぽにゃんさんこんにちは。

7月にはまだ遺構が見れたんですか!
ぽにゃんさんもよくご存じの先生がその消滅に心痛めて
おられましたので私も気にかかっていたんです。

全国にはほかにも消滅してしまう城跡は後を絶たない
ですが、少しでも多く話題になって興味を持ってもらえればいいですね。
ほんとはなんらかの形で残って行ってほしいんですが。

[1519] ガーン、工事していました 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/08/05(Tue) 16:25
> 近くなので、今度遊びに行ってきます。

 ということで、本日少し時間がありましたので、早速行ってきました。が、工事していましたー、悲しいーーー。もう少し待ってくれればいいのにー。

> 今回の調査は、約千五百平方メートルの宅地造成予定地
> で、四-七月に実施。

 と記事に書いてありましたので、8月に入ったのですぐ工事が始まったみたいですね。
 まー、しゃーないですわ。後ほど写真アップしておきますね。

 それと、また間違いがありました。

> 三条岡山遺跡の地図はお城さんマークに入れておきまし
> た。

 としていましたが、僕がマークしていたのは、

・会下山遺跡

 でした。すいませーん。実は僕も最初間違えて会下山遺跡に出かけてしまったんですよ。

 再度正確な位置をお城さんマークに入れておきます。
 場所はほんと住宅地の真ん中で、甲南女子のすぐ横ですね。

 で、芦屋市教育委員会からお聞きした情報をここに書いておきますね。

1.
現在でも鷹尾城の居館は「城山南麓遺跡」である

2.
今回発見された三条岡山遺跡は居館は、同一の城ではない

3.
三条岡山遺跡の居館は、瓦林正頼のプライベートな居館の可能性が高いと推察できる

4.
9月程度に今回の発掘写真パネルを公開する予定なので、芦屋市広報に問い合わせてほしい

 という事らしいです。
 芦屋市教育委員会の説明が正しいとすれば、居館は最低でも2つあったということらしいです。家臣衆は城山南麓遺跡に、瓦林正頼は三条岡山遺跡ということなのでしょうね。

 しかし、なんでわざわざ2つに作る必要があるでしょうかね。一緒に住めばいいのにー、と思ったりもしますが。

 まだまだ謎多き鷹尾城です。

では、では。

http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.73135861&lon=135.29591833&sc=3&mode=map&pointer=on


[1518] 三条岡山遺跡? 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/08/05(Tue) 01:06
 で、少し興奮しすぎて場所の確認をしていませんでした。

・三条岡山遺跡

 と記事には書いていますよね。
 あれ?僕の資料によると、居館跡として今まで類推され、遺構も発見していたのは、近くにある、

・城山南麓遺跡

 の方ではなかったな?

 僕が知っている範囲では、三条岡山遺跡で今回初めてです。城山南麓遺跡の近くに三条岡山遺跡はありますが、それが同じ城とすればあまりにも規模が大きいですね。

 城山南麓遺跡の遺構っていったいなんだったのでしょうか?
 ・・・・・・謎多いです。

 真意は僕にはわかりませんが、三条岡山遺跡の地図はお城さんマークに入れておきました。
 近くなので、今度遊びに行ってきます。

では、では。

http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.73767935&lon=135.29291227&sc=3&mode=map&pointer=on


[1517] な、な、なですとー。鷹尾城 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/08/05(Tue) 00:46
 な、な、な、な、な、な、な、な、な、なんとー。

> 私はてっきりこっちにご興味があるものと思ってました
> よ。

 よくぞ、管理人さん、情報を教えてくださいました。さすがー、僕が何が興味あるかよくご存知で。

・7/25

 は、ちょうど小谷城見学ツアーに出かけていましたので、全く見逃していました。

 鷹尾城は管理人さんのホームページにもありますが、

・鷹尾山城
・芦屋城

 と2つの構造からなりたっています。

 山城の基本パターンは、山頂部の削平面を設け、山麓に居館を作り、日々の生活は居館で、有事の際は山頂部に立て篭もるのですが、鷹尾城もこの基本パターンを踏襲していると思われます。

 で、今回記事によりますと、

> また、円墳の周溝に接するように堀が出土した土豪の居館
> 跡には、池や滝など庭園の遺構を確認。十五世紀後半-十
> 六世紀の築造とみられ、同時期に近くにあった鷹尾城の城
> 主、瓦林正頼と関係のある土豪の住居だった可能性がある
> という。

 ということで、その「居館跡」が発見されたということらしいですね。居館跡については、芦屋市がなんどか発掘調査をしていたので、なんとなくは知っていたのですが、一番驚いたのが、

・池
・滝
・庭園

 おーーーー、すごい。瓦林さんなんとセレブな生活をしていたのでしょうか。

 確か鷹尾城の文献で、有名な和歌か僧侶の方が遊びに来られて、「素晴らしい城」と評価したんだそうですが、鷹尾城を登頂した人ならば解ると思うのですが、「鷹尾山城」の削平面は狭いし、堅堀などはありますが、他の摂津国の

・安威砦
・福井城

 などに比べてもはっきり言ってショボイ。これのどこが素晴らしいのだろう、と思っていたのですが、ひょっとして評価したのは、鷹尾山城ではなく、

・芦屋城

 だったのかもしれません。城に池や滝や庭園まであるのならば、「素晴らしい城」と評価してもおかしくありません。

 もっと飛躍すると、メインの城は芦屋城で、鷹尾山城は非難シェルターのような城だったかもしれません。

 いやー、面白くなってきました。
 なにか解りましたら、ここに書き込んでおきますね。

では、では。

http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.58569935&lon=135.70275623&sc=4&mode=map&pointer=on


[1516] 馬ケ脊城 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/08/05(Tue) 00:13
> 前に書いた丘陵から南に連なる孝霊天王陵を挟んだ丘の頂
> にあったようで、本町1丁目ではなく3丁目になるそうで
> す。
> 目印は王寺町健民グランドの東で丘の南に王寺霊園という
> 墓地があると。

 というと、場所はこの辺になりますでしょうか。お城さんマークをチェックしてみてください。

> もう先頃に宅地造成されて遺構は喪われたようだと…。

 いゃーん、そーですかー。
 残念。
 僕が行くまでは、工事もストップしてほしかった。

 でも、フォローの情報有難うございます。
 助かります。

では、では。

http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.58569935&lon=135.70275623&sc=4&mode=map&pointer=on


[1515] 馬坂城と馬ケ脊城… 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/08/04(Mon) 23:45
こんばんは

ブレイズマンさん、本岡さん

本岡さんの書き込みを見て、
そう言えば馬坂城の名も聞いたような…と、
馬ケ脊城の話を聞いた生駒市に住む友人に尋ねてみました。

どうやら、一つの城の別名のようです。

それから、ブレイズマンさん、
私も訂正とお詫びです。

というのは馬ケ脊城の位置ですが、
前に書いた丘陵から南に連なる孝霊天王陵を挟んだ丘の頂にあったようで、
本町1丁目ではなく3丁目になるそうです。
目印は王寺町健民グランドの東で丘の南に王寺霊園という墓地があると。

それから、本岡さんの書き込みの通り、
もう先頃に宅地造成されて遺構は喪われたようだと…。

私も誤まった位置情報で、ごめんなさいです。



阿弥陀の住人さん、追加情報ありがとうございます。

納得しました。(^^

ひょっとして・・と思ったんですよ。
場所は改めて地図にポイントを置いてみました。
http://www.mapion.co.jp/c/here?S=all&F=mapi4022732080804235832

やっぱり昨年のうちに行っておけばよかったかなぁ
と思いました。

城跡は一度壊してしまうともう戻せないですもんねぇ。

[1514] 間違いです 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/08/04(Mon) 13:59
 すいまーせん、誤った情報を掲載してしまいました。

> 9/7
> 時 間:13時30分から、聴講無料(申し込み不要)

 としていましたが、

9月6日(土)

 の誤りでしかも説明会は、

・斑鳩町   龍田城跡

 に関する事で、馬ケ脊城の事ではありませんでした。
 失礼しました。お城さんマークにホームページ入れなおしておきましたので、ご覧下さい。

 馬ケ脊城の事気になっているので、例の如くフットワーク軽く県立橿原考古学研究所付属博物館に電話して事情を聞いてみようかなー、と思ったのですが、今日は休館日でした。ひぁははははは、残念。

 詳しい情報を入手できましたら、またここに書き込んでおきますね。

では、では。

http://www.kashikoken.jp/museum/tenrankai/kaisai/kaisai.html


[1513] 馬ケ脊城 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/08/04(Mon) 13:52
 阿弥陀の住人さん、いつもいつも詳しい情報有難うございます。
 いやー、それにしてもホンと色々な城についての知識が豊富ですね。びっくりしますわー。

> この丘陵を囲んで、
> 北に王寺中学、西に王寺工高、南に王寺小学校があり、
> 東側には国道168号線が通っています。

 はいはいはい、地図をお城さんマークに入れておきましたのでここで合っていますでしょうか?
 これでみると、王寺工高の裏になるようですね。

> 松永弾正久秀と対峙したとされる放光寺があります。

 げ、そーだったんですかー。それは知りませんでした。「放光寺」って場所が変わっていないのならば、1kmも離れていませんね。怖いですねー。

> 片岡春之も織田方にあって、信貴山城の支城となっていた> 片岡城を攻め、これを奪回したと。

 そーゆー事らしいですね。それはいろいろ調べて僕も知っていました。その後信貴山城の攻略地点しても使われたとか。

> 丘の頂上に築かれた25×15m程度の単郭構造

 そーだったんてすかー、単郭構造とはまったく解りませんでした。

> 町教委は、宅地造成に伴って丘陵頂上部約1300平方メ
> ートルを調査し、周囲に溝を巡らせた壇状の施設(南北2
> 4メートル、東西15メートル)を確認した。溝の内側に
> は土塁があり、南北両端に門が設けられていた。柱穴が見
> つからなかったことから、本格的な櫓(やぐら)は設けら
> れず、有事のたびに兵士が詰めて戦闘したとみている。

 と記事にはありますが、「宅地造成」ってまだ実施されていないのでしょうかね。今行けばまだ見られるのかな。

> 戦国の栄枯盛衰を目のあたりにして、世の無常を感じたの
> かもですね。

 うぷぷぷぷぷ、そーかもしれませんねー。
 なんかさとりをひらいちゃたのかも。

 貴重な情報有難うございます。

続きがあります。

http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.5880303&lon=135.7062764&sc=2&mode=map&pointer=on


[1512] 馬ケ脊城と片岡氏のこと 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/08/04(Mon) 10:36
こんにちは
ブレイズマンさん、しばらくぶりです。

私の知る馬ケ脊城跡について、次に記します。

奈良県王寺町教委が発掘調査した「馬ケ背城跡」は、
王寺町本町1丁目の丘陵の上にあったようですね。
この丘陵を囲んで、
北に王寺中学、西に王寺工高、南に王寺小学校があり、
東側には国道168号線が通っています。

ちなみに、王寺小学校の北隣の麓には、
「北葛城郡史」が伝える元亀2(1571)年の戦で筒井順慶に従っていた
国人領主の片岡春之が陣を構えて、松永弾正久秀と対峙したとされる放光寺があります。
また、この戦いで春之は敗れて馬ケ脊城に逃げ込んだが落城したと言われます。

その後、敗れた片岡氏は本拠の片岡城(下牧城)も松永方に奪われますが、
天正5(1577)年に裏切った松永弾正を織田軍が攻めた時、
片岡春之も織田方にあって、信貴山城の支城となっていた片岡城を攻め、
これを奪回したと。

この度、発掘調査された馬ケ脊城の遺構は、
丘の頂上に築かれた25×15m程度の単郭構造で、
郭内に建物遺構は発見されず、
周囲を空濠と土塁で囲み、南北に虎口をもつと。
してみると、どうやら戦時用の陣城として築かれた用途のもののようですね。

ただ、南側の虎口遺構が織田系築城によく見られる鍵方になっていることから、
天正5年の松永攻めの織田方陣所として改修利用された可能性が高いとか。

ついでに片岡春之のその後は、
筒井順慶が伊賀に転封された時に筒井家から離れて豊臣秀長に仕え、
豊臣家滅亡の後は故地に隠棲して静かに余生をおくったとか。
戦国の栄枯盛衰を目のあたりにして、世の無常を感じたのかもですね。

阿弥陀の住人さん、こんにちは。

すっかり馬坂城のことかと思いこんでましたが馬ヶ脊城とは別モノなんでしょうか。

もし同じものだったら昨年暮れに宅地造成されてしまうよ、と情報をいただいていたのですが完全に行く機会
を失ってしまっておりました。

私が聞いている馬坂城だったらもう消滅してしまっていることでしょう。
うーん、別モノなんですねぇ。(^^;


[1511] 馬ケ脊城が発見 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/08/03(Sun) 23:53
> 詳しくはのちほど書きますが、

 と書いていたように、いろいろな城についてはのちほど書きたいと思いますが、城めぐ「お城関連ニュース」に面白い記事が出ていますね。

> 奈良・王寺で戦国時代の砦跡 争乱の地「馬ケ脊城跡」か

 えーーーー、なんか新しい城が発見されたみたいですね。松永久秀は越水城の三好長慶関係で、

・滝山城
・信貴山城

 で両方とも来城した事がありましたので、非常に関心があります。

 で、

・県立橿原考古学研究所付属博物館

 説明会があるそーですね。興味あるでいってこよーかなー。

9/7
時 間:13時30分から、聴講無料(申し込み不要)

 案内のホームページをお城さんマークに入れておきますね。
 ところで、

・馬ケ脊城

 の場所って「宅地造成に伴って丘陵頂上部約1300平方メートルを調査」とか書いていないのですが、詳しい方ご存知の人おられますでしょうか。

では、では。

http://www.nobunaga-kyokan.jp/cyousaichi.html

ブレイズマンさんこんにちは。

そっちに反応されましたか。
私はてっきりこっちにご興味があるものと思ってましたよ。

http://www.kobe-np.co.jp/news/hanshin/0001265911.shtml

すぐ流れてしまったのでひょっとしたら見られてないかもしれません。

[1510] 大阪城・御金蔵 投稿者:若旦那 [近畿] 投稿日:2008/08/03(Sun) 19:21
本岡さんコンニチハ
炎天下、大阪キング期間中の御金蔵の一般公開に行って来ました。
金200円也でしたが暑い中、案内・説明されていた観光ボランティァのおじさんとおばさんの活動資金に一部でも利用していただければと、今後文化財の修復に使われるのだとおもえば安いものです。

西ノ丸庭園にも無料で入れたのですが、硝煙倉と乾櫓は立入禁止区域になっていました。・・・残念!!

年に数回千貫櫓等の公開があるとのことですので再訪したいと思います。
酷暑でしたが、沖縄のオリオンビールを飲んだりマンゴーかき氷を食したりと、これはこれでありかなと思いました。
 ただ、石垣などの文化財に安易に落書きはしないで頂たいですね。

許せない!!

文化財保護法違反だ!!
先の大戦での機銃掃射の跡や爆弾で歪んだ天守石垣の跡を見ても何も感じないのかな?

そんな歴史を乗り越えた貴重な文化財だと認識して後世にのこすべき大切な遺産なのに・・・。
で、来年は子どもをを連れて行きます。
  円満合意で・・・(笑)



若旦那さんこんにちは。

私も先週行きましたよ、金蔵を見に。
床板がめくってあって、その構造がよくわかってよかったですねぇ。

写真が撮りづらいのがネックでした。

あとは私もビールを飲みつつぶらぶらして帰りました。
なんか城に来ている気分じゃなかったです(笑)。

たまにはこういうのもいいですね。

他の櫓はまた別の機会を狙いましょう。
私は平日行ける距離なのでそこだけは安心です(^^;

[1509] 3層4階天守 信長公居館 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/08/01(Fri) 23:17
 以前に、

>> ブレイズマンさん、小谷城はいいですよ、
>> 大獄や、ほかにも別峰で独立した郭、砦もありますし
>> 一大城郭です。
> にぁははははは、実は7月末に行く事にしました。
> 楽しみです。

 と書いていたと思いますが、小谷城に行ってきました。
 いやー、確かに大きい城で、山城にも関わらず石垣があったりしてなかなか見ごたえのあるお城さんでした。
 詳しくはのちほど書きますが、今回一番書きたいことは、

・岐阜城

 です。で、まーいろいろあったのですが、一番の驚きは、

・信長公居館

 の発掘調査をしていました。
 ここは、居館なのにもかかわらず「3層4階」の天守が存在していたとルイス・フロイスが記載している文献が正確だったのか、

・礎石確認

 を主眼を置いているそうです。

 見つかればいいですねー。

 去年は茶室らしき礎石跡が発見され、最終的には岐阜公園の全域を調査したとされているようです。
 ここは、発掘調査そのものを観光資源として活用されるようで、案内看板などが充実していました。
 特に、夏休み期間中は一番可能性の高い部分の発掘調査があるようで、もう間もなく大きな発見があるかもしれません。

 のちほど写真アップしますね。
 ホームページもお城さんマークに入れておきました。

 居館なのに天守が必要なのが、信長さんらしいですね。

では、では。

http://www.nobunaga-kyokan.jp/cyousaichi.html


[1508] お久しぶりです 投稿者:片桐且元 [近畿] 投稿日:2008/07/24(Thu) 19:38
だいぶ昔にお世話になっていた者です。とても長い間書き込みをしていなかったので、もう忘れていられると思いますが、どうかよろしくお願いします。もう結構年月がたっているものですが、まだまだ城跡めぐりに関しては全くの初心者なのでございます。いろいろ巡って城の知識を学びたいたいのですが、事情に寄りなかなか行くことができません。今度、岡山市周辺に行く予定なのですが、そこらへんにいい城跡はないものでしょうか。差し支えなければ、どうぞ教えて下さい。堅苦しい挨拶になりましたが、よろしくお願いします。

片桐さん大変ご無沙汰しております。
覚えておりますよ!

書き込みありがとうございます。

岡山市周辺ですと、弊サイトでは金川城、徳倉城がお奨めですが、今の季節だとつらいですね。

いっそのこと高松城とその周辺の境の城をめぐり、秀吉との戦いに思いを馳せるのもいいかもしれません。

8月は岡山城が特別なライトアップされるイベントが確かあったと思いますが、イベント名を度忘れしてしまいました。(^^;

夏休みで活動しやすい反面、やっぱりこの暑さと山城の場合は下草や虫などにより行きにくくなってますね。

楽しんできてください。

[1507] 草置城など・・ 投稿者:阿弥陀の住人 [北陸] 投稿日:2008/07/24(Thu) 00:20
本岡さん、皆さん、こんばんは

河合館に行かれたんですね。
なかなか立派な土塁でしたでしょう(笑)
以前は県道に面した土塁と堀が残り、
いまは屋敷地内に移築されている高麗門もあったのですが、
県道側からは遺構がわかりにくくなっていますね。

この三連休は、但馬との国境の奥播磨一帯の山中を、
古代の製鉄遺跡など訪ねてウロウロしておりました。
その中で、生野から千町峠越えで宍粟の一宮町へ抜ける途中で…、ありましたねぇ「草置城」!
いやはや、立派な二層櫓?に面喰ったのは本岡さんと同じ(笑)
まさに草深いこじんまりした山城ですが、
遺構内の樹木が伐採されて廓や竪堀などが、
一見してわかりやすく整備されていましたね。
しかし、あれまでしたものならせめて城史と遺構の説明板などもあって然るべきなどと…。

まぁ宝篋印塔を五輪塔という説明板を見るに及んで、
こりゃ宍粟市の教育委員会さんに今少しがんばっていただかないと…と。


阿弥陀の住人さん、こんにちは。

河合館はほんとすごい土塁でした。
情報ありがとうございました。

草置城に行かれたんですね。
今も幟があちこちにたっているんでしょうか。
雲海が見られることが強調されていましたので晩秋に
訪れてみるのもいいかなと思ってたんですよ。

しかし・・暑いですね。
実は現在遠征中ですが、予定をこなすのが大変(^^;


[1506] *誹謗中傷の書き込みを削除しました 投稿者:本岡 [近畿] 投稿日:2008/07/20(Sun) 22:03
皆様、暑いですね。

こんな暑い日はクールダウンして穏やかでいたいものだと思います。


さて、さきほど誹謗中傷の書き込みがありましたので削除させていただきました。
大変残念ですが、ご理解ください。



[1505] 置塩城の天守 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/17(Thu) 15:53
> 「羽柴秀吉播磨九城城割り覚え(一柳文書・天正八年)」に、
> 『国中しろわるへき覚
> 一、 置塩之御城之事 小野木清次、山崎四郎右衛門
> (中略)右之城共、不入時分柄ニて候条、わらせられる事
> 尤ニ存候事。
> 卯月廿六日 秀吉(花押)』(原文のまま)

 さすがですねー。
 僕が知っている中でここまで置塩城を詳しい人を知りません。やっぱり置塩城についてもかなり詳しいですね。

 まー秀吉さんとしては、山城にこーゆー大きい城があるのはうっとしいかったんじゃないでしょうかね。

 で、

> もくは、姫路市の教育委員会に電話してみます。

 とまだ発掘調査文献はまだ見ていないのですが、電話して問い合わせました。

 報告します。

 まず、

> 「磚列建物」は一般的にどのような場合に建てられること
> があるのでしょうか。

 は、はやり「湿気抜け」が一番の理由だそうです。磚列にしたほうが横から空気が抜けやすいとか言っていました。で、置塩城の天守の場合、

・角礫

 も発見されてダブルで入念に湿気抜きをしていたと考えていいそうです。このような場合、可能性としてあるのが、

・食糧
・火薬庫

 が考えられるそうです。が、火薬庫の場合、爆破した場合の抜けがあるのが一般的だそうですが、置塩城の場合、そうゆうものがまったく無いので、普通に考えれば「食料」であろうという事だそうです。

・天守もしくは櫓の高さ

 ですが、まず考古学的に定かな事は何も言えない、と前置きがありながら、一つの推測として、床面からの規模から推定して、櫓が立っていたとすれば2階まで、3階はギリギリ難しいか、いけるか程度、4階以上不可能ではないかと、と言っていました。

 なるほどー、大分置塩城の、

・天守もしくは櫓

 のイメージがわいてきました。

 電話で質問する時、ここの書いている事がいろいろ立ちました。姫路市の教育委員会人も、「堺環濠都市」の比較を入念にしていただきました。

 また追加でわかった事があれば、ここに書き込んでおきますね。

では、では。

ブレイズマンさん、こんばんは。

教育委員会への問い合わせレポートありがとうございました。

ブレイズマンさんのようにフットワーク軽く問い合わせをする姿勢はすばらしいと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。

[1504] 在地城郭の改修工期について 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/07/15(Tue) 08:54
秀吉による在地城郭を織豊系城郭に改修したひとつの事例として、
山崎・天王山合戦の直後、
天正10年、7月17日天王山の在地城郭跡で築城開始し、
10月15日までに完成、その間ほぼ90日3ヶ月で山崎宝寺城完成。
大阪城完成までの秀吉の支配の拠点でした。

姫路城の改修による拠点化は、
播磨国中支配と、目前の課題である毛利征伐のため急を要する情勢でした。
だからこその置塩城はじめ国中九城の破却令であり、
同時にその石垣と用材を改修用に転用したのでしょう。

特に置塩城は守護大名赤松家が支配の拠点とした大規模な城郭で、
土木工事の石垣用の石や建築用の木材も豊富であったと考えられ、
更に、置塩城直下を流れる夢前川を利用すれば、
姫路城近くまで資材として運ぶ便もあったのだろうと。

また、「との一門」の事例のようにそのまま解体移築できれば、
工期短縮には極めて有効な手法ではありませんか?
逆に、だからこそ多分に急造の弊害も否めず、池田輝政入城の後は、
大規模な改修と拡張工事を要する城でもあったのでしょう。
その中で、わずかに残されたのが、本丸の油壁やとの一門などの建築と、
石垣の一部ではないのでしょうか。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-nisikawa/hakkutu15.htm

阿弥陀の住人さん、いつも詳しい御説明ありがとうございます。
すっかり勉強させてもらいっぱなしです。


えっとそれは置いといて(^^;・・今日は久々に小野市
をめぐっていました。
久々に河合館(河合屋敷)にいきましたが、確かに3方に土塁が残っていました!
ここまでのものがあると、ほんとにそうなのか?と疑ってしまうほどでした。

いやぁ今日はいいものを見せていただきました。



[1503] 姫路城 投稿者:軒丸瓦 [中国] 投稿日:2008/07/14(Mon) 23:01
一年で在地城郭を織豊化できないでしょ・・・。


[1502] ミスの訂正 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/07/14(Mon) 22:41
ミスの訂正です。

秀吉による姫路城の改修は、
天正8年4月(1580年)〜天正9年3月(1581年)です。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-nisikawa/hakkutu15.htm


[1501] 最後に 投稿者:軒丸瓦 [中国] 投稿日:2008/07/14(Mon) 22:40
差し支えなければ、何方のどのような根拠に基いた説なのか出典を明らかにして下さると幸いです。
これを織豊系の門とされる軒丸瓦さんのご意見の根拠を御教示下されば、という答えですが長くなりますので、世界文化社の秀吉の城という本のページ38、ページ39を参照ください。
との一門ですが移築の可能性が高いみたいですね。しかしとの一門周辺の石垣は古式で池田家による改修以前の織豊期のものとみられると聞きました。そこで石垣に伴う建造物ではという説が浮かび上がったみたいです。
(石垣遺構・コビキA手法による天正年間以前のものと見られる城郭瓦など)という話ですがコビキAは畿内では天正15年くらいまで確認されているみたいですよ。九州では関ヶ原以降も使用されていますし。
はじめてコメントをもらったかと思えば単なる私の存在をこのサイトから排除しようとする人間ばかり。
普通に話もできないのですか?
自分たちの固定観念に異議を唱えたら言葉巧みに言い負かすだけ。
いやになりました。
もっと本を読んで自身の説を出せたり意見を言ったらどうなんですか?
古文書がすべてですか?



軒丸瓦さんいつも勉強させていただいております。

今回も思わぬきっかけからいろんな方が書き込んでくださり、思わぬ盛り上がりに驚きつつも喜んでおります。

ですので、どうか排除だなんてお考えにならないでください。軒丸瓦さんには普段私が考えないようなアプローチで新鮮な情報を書いてくださっていることにはいつもありがたいと思っているんですよ。

教えてくださった秀吉の城は読んでおりませんでしたので一読しようと思います。
ありがとうございます。

[1500] ミスの訂正 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/07/14(Mon) 21:57
ミスの訂正です。

秀吉による姫路城の改修は、
天正8年4月(1580年)〜天正9年3月(1581年)です。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-nisikawa/hakkutu15.htm


[1499] 置塩城のこと・・ 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/07/14(Mon) 21:53
こんばんは

軒丸瓦さん
>廃城年代が1581年以降も姫路城改修まで存続していたという説をご存じではないのでしょうか?

はい、寡聞にして存じません。
差し支えなければ、何方のどのような根拠に基いた説なのか出典を明らかにして下さると幸いです。

私の知る置塩城の秀吉による「城割り(破城)」の命令の出典は、
「羽柴秀吉播磨九城城割り覚え(一柳文書・天正八年)」に、
『国中しろわるへき覚
一、 置塩之御城之事 小野木清次、山崎四郎右衛門
(中略)右之城共、不入時分柄ニて候条、わらせられる事尤ニ存候事。
卯月廿六日 秀吉(花押)』(原文のまま)

と記されている小野藩一柳家に伝わる文書です。
また、秀吉による姫路城の改修は、
天正八年四月(1580年)〜天正八年三月(1581年)のこととされていますから、
1581年以降も存続していたというのは、どのような根拠からなのでしょう?

姫路城「との一門」について、置塩城の大手門移築というのは伝承です。
しかし、板張で石落しもないと言う古い様式の門であることも事実ですね。
これを織豊系の門とされる軒丸瓦さんのご意見の根拠を御教示下されば、
これまた幸いです。

置塩城に関する現在までの発掘調査に基く視点の主流は、
この城は織豊政権の手がまったく入っていない状態で遺構が残っており、
播磨守護職赤松氏の本城として播磨独自の在地系城郭としての特徴
(石垣遺構・コビキA手法による天正年間以前のものと見られる城郭瓦など)
が見られ、織豊系城郭への影響を研究するための貴重な遺構−、
ということかと。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-nisikawa/hakkutu15.htm


[1498] 塼列建物と角礫 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/14(Mon) 21:27
> 置塩城の通称本丸のいわゆる「塼列建物」での塼の使われ
> 方は、床に敷き詰めたのではなく、列状に立てて、土壁の
> 下部に貼り付ける使い方をされており、こうした塼の使わ
> れ方がされた建物が塼列建物と呼ばれているようです。

 なるほどー。

・磚列建物
・礎石建物

 などあるようですね。礎石建物は、池田城でもよく見かけますし、一般的な工法なのでしょうか?
 「磚列建物」は一般的にどのような場合に建てられることがあるのでしょうか。管理人さんが書かれているように、

> 雨水やネズミの侵入を防ぐためとか。

 なんでしょうか?「磚列建物」のメリットってなんかあったりするのでしょうかね。

> 兵庫県、それも播磨国の織豊の影響下になかったと考えら
> れる戦国城郭にけっこう見受けられるのが興味深いところ
> です。

 おー、なるほどー。
 兵庫県に築城集団があったりするのでしょうか?

> もちろん、塼列建物である櫓の第一層(一階)が武器庫や
> 食糧庫などに使われた可能性は十分あると考えられます
> ね。

 そーですね。

> 床面には礫(れき)を敷き詰めています。礫は拳大の角礫
> で湿気抜きを目的としたもののようです。

 とありますので、可能性は高いです。
 「湿気抜き」とあるので、武器ではなく、食糧の方ではないでしょうか。

> 1480の三木の多重土塁についての返答ですが、今の季節は
> とても見れたものじゃないですよ。(^^;

 了解しました。
 いずれにしても三木城にはいってみますね。

では、では。


[1497] 三木付城群の久留美村大屋内谷上付城についての質問 投稿者:ぽにゃん [北海道] 投稿日:2008/07/14(Mon) 13:14
>この付城は資料によれば東西90メートル、南北80メートル、西側には横堀と土塁、南側と東側には一段低い幅5メートルほどのテラス状の郭。そして東南隅には8メートルx8メートル、高さ1.2メートルの櫓台を有するとあるんですが・・・

上記のことが書かれている資料をおしえていただけませんか?現地に行ったときには横堀は確認できなかったのですが…

ぽにゃんさんこんばんは。

実は資料のコピーをいただいたので正確なことを申し上げられないのです。

数年前に上月合戦関連のセミナーがあり、そこで陣城に関することとして三木の付城が詳細に紹介されたものだったように記憶しています。

この1月に三木の付城めぐりをしているときに、地元の方からちょうど三木市も調査を開始しているという話を聞きました。
真新しいマーキングがあったり、枝が伐採してあったりと確かにそれらしい痕跡が残っております。

新しい情報が出てくるのを期待しているんですけどね。

あまりお役に立てずすいません。

[1496] 置塩城の廃城年代 投稿者:軒丸瓦 [中国] 投稿日:2008/07/14(Mon) 09:55
阿弥陀の住人さん
廃城年代が1581年以降も姫路城改修まで存続していたという説をご存じではないのでしょうか?
との一門が移築という話は聞いてますがもし移築ならあの織豊系の門が置塩城に存在したとなると、赤松家の時代のみ存続したということがおかしくなりませんか?
瓦は本丸以外からそこそこ出土しているみたいです。
との一門だけ古風なのは秀吉期の姫路城の建造物だからという話も聞いたことがあり私は移築ではなく池田家以前の建造物だからではないかと思います。
置塩城の話ですが織豊城郭の瓦という本がありますがそれに置塩城の瓦の記載があります。それによると本丸のみならず二の丸からなど広範囲に瓦の使用が認められ播磨の他の織豊文化が浸透しる以前に瓦を使用した城郭より瓦の使用が本格的であることからも1581年以降も存続したという説があるみたいです。


[1495] 塼列建物の話題について 投稿者:本岡 [近畿] 投稿日:2008/07/14(Mon) 00:13
本岡です。

皆様、塼列建物についていろいろと話を盛り上げてくださりありがとうございます。

すっかり乗り遅れてしまいましたが、私もどこかで見たなぁと思っていたのですが思い出しました。

端谷城の現説資料(平成17年度)で見たのでした。

そこでは「一辺29センチ、厚さ約2センチの方形塼(平瓦状のやきもの)を、建物の外壁に添うように地中に立てて埋めるもの。」とありました。

雨水やネズミの侵入を防ぐためとか。


私も1483で阿弥陀の住人さんが書かれているように
建物があったのだとして、それがどういうものだったかは・・? と思います。



ブレイズマンさん、言い忘れてました。
1480の三木の多重土塁についての返答ですが、今の季節はとても見れたものじゃないですよ。(^^;

1か月前で一番見やすいと思っていたところがすっかり草に覆われてしまってました。

ホースランドパーク内のものだとまだ見れなくはないかもしれないかなあ・・という程度の認識です。


ではでは。


[1494] こんばんは 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/07/13(Sun) 21:34
GWの米子城の写真です。写っているがMASAYUKIこと石井勘太郎です。

http://photos.yahoo.co.jp/ph/kantarou1996/vwp?.dir=/cb01&.src=ph&.dnm=62e9.jpg&.view=t&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/ph/kantarou1996/lst%3f%26.dir=/cb01%26.src=ph%26.view=t

MASAYUKIさんこんばんは。

おおーー、なんと初めてお顔を拝見できましたが、ほんとに小学生の方だったんですね(^^;;

ものすごく詳しい専門家の方やMASAYUKIさんのようにお若い方まで実に幅広い方々が見てくださってるんだなぁと改めて感動しております。

ありがとうございました。

[1493] 塼列建物の検出された城跡について 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/07/13(Sun) 20:04
ブレイズマンさん

置塩城の通称本丸のいわゆる「塼列建物」での塼の使われ方は、
床に敷き詰めたのではなく、列状に立てて、土壁の下部に貼り付ける使い方をされており、
こうした塼の使われ方がされた建物が塼列建物と呼ばれているようです。
床に敷き詰められていたのは角礫(割った角のある石コロ)です。
これは床の湿気防止にいまの建築でもよく使われる方法でもあります。

ちなみに、中世考古学文献研究会の会報7号によると、城郭における塼列建物遺構について、

感状山城(兵庫県相生市)、御着城(兵庫県姫路市)、枝吉城(兵庫県神戸市)、端谷城(兵庫県神戸市)、伊丹城(兵庫県伊丹市)、それと大阪府では高屋城(羽曳野市)、若江城(東大阪市)、で塼列建物の遺構が検出されていると新潟大学人文学部の矢田氏が報告しています。

兵庫県、それも播磨国の織豊の影響下になかったと考えられる戦国城郭に
けっこう見受けられるのが興味深いところです。
これらが全て恒久的な櫓(矢倉)建築であったとすると…。

もちろん、塼列建物である櫓の第一層(一階)が武器庫や食糧庫などに使われた可能性は十分あると考えられますね。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-nisikawa/hakkutu15.htm


[1492] 塼瓦 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/13(Sun) 15:55
> 塼瓦はご存知でしょうか?

 いやーーー、全く知りません。はじめて聞いた言葉です。

> 寺院の本堂などの床に貼ってあるタイル状の平たい瓦のこ
> とですが、
> その塼瓦を建物の土壁基礎に並べて貼り付けた建物のこと
> を言うようです。

 ほーほー、例のホームページには、

> 礫は拳大の角礫で湿気抜きを目的としたもののようです。
> また、土壇の土盛は建物全体ではなく壁の基礎であること
> も明らかになりました

 との記載が見受けられますので、なにか換気目的だったのでしょうかね。
 しかし、なんでタイル状の平たい瓦を敷き詰めると換気できるのでしょうかね?

> 堺環濠都市遺跡で多数検出されている他、大阪湾沿岸の戦
> 国末から織豊期の城郭からも検出されています。
> 上部構造については残存例を知らないので明確なことは言
> えませんが、
> 土蔵などが想定されているようです。

 やっぱり。

> 倉庫のような建物という認識は間違っていますでしょう
> か?

 という認識のもあながち間違いではなかったわけですね。


 山城のパターンとして、山頂部に倉庫のような建物を築き、有事の際は立てこもる、と言われていますが、今回置塩城で発見された、

「天守」もしくは「櫓」跡

が正しいとするならば、1階は倉庫のような場所で、換気をよくするために塼瓦を敷き詰め、上層部はそれこそ「物見櫓」のような目的で使用されていたかもしれませんね。


うーーーん、面白くなってきた。


> いずれにしても、先に紹介した報告書に詳細に記してあり
> ますので
> ご一読をお勧めします。

 了解しました。
 ただ、うちの図書館は貸出・閲覧不可でした。兵庫県立図書館か大阪市立図書館ですね。


 僕は「堺環濠都市」というのも結構興味惹かれるんですよねー。越水城の城主三好氏は、堺との交流は深いですし、堺幕府の事についてもいろいろ調べたいなー、と思っているんですけどね。

 まーしかし、カベノ城からアメーバーのように広がっていくこと。

では、では。

http://61.197.194.11/umehara2007/ume_query.php?sw_title=&sw_etc=&sw_region=&iPage=1&bAndSrch=1&UNIT=50&iTotal=-1&ORDERBY1=&iPage=36


[1491] 塼列建物について 投稿者:あぐ丸 [近畿] 投稿日:2008/07/13(Sun) 10:11
> どのような建物のことなんでしょうか?

塼瓦はご存知でしょうか?
寺院の本堂などの床に貼ってあるタイル状の平たい瓦のことですが、
その塼瓦を建物の土壁基礎に並べて貼り付けた建物のことを言うようです。
堺環濠都市遺跡で多数検出されている他、大阪湾沿岸の戦国末から織豊期の城郭からも検出されています。
上部構造については残存例を知らないので明確なことは言えませんが、
土蔵などが想定されているようです。

いずれにしても、先に紹介した報告書に詳細に記してありますので
ご一読をお勧めします。


[1490] きゃー、恥ずかしい 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/13(Sun) 00:01
 あぐ丸さん、情報有難うございます。

> セン列建物が検出されたT-1郭では4段階の変遷が判明
> しており、第4段階に至って初めてセン列建物が構築され
> たということです。

 きゃーーーー、そーだったんですかー。

4段階 = 4階建

 ではなかったんですねー。
 なんて大きなミスでしょう。いやー恥ずかしい。

 まー

> 僕の持っている資料にはきわめて短く書いてあるだけで、

 と書いていますように、「4段階」が何の意味かよく解らなかったんですよ。

 ご勘弁ください。ちなみに、

・セン列建物

 というのは、どのような建物のことなんでしょうか?倉庫のような建物という認識は間違っていますでしょうか?

では、では。


[1489] 置塩のセン列建物 投稿者:あぐ丸 [近畿] 投稿日:2008/07/12(Sat) 23:26
置塩城跡では発掘調査による土の堆積状況から遺構の時期的な変遷が判明しています。
セン列建物が検出されたT-1郭では4段階の変遷が判明しており、第4段階に至って初めてセン列建物が構築されたということです。


[1488] 第4段階塼列建物 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/12(Sat) 22:01
> 置塩城の通称本丸の発掘調査で櫓を発見と言う夢前町教育
> 委員会の発表(平成15年)は、神戸新聞などの記事がネ
> ットに出ていますね。

 おー出ていましたね。一応「お城」さんマークに入れておきました。
 これには、

> 発掘は二〇〇一年度から五年計画で実施。

 と書いてありましたので、2006年で終了したようですね。

> 発掘調査結果のサイトURLを、ご参考までに載せておき
> ます。

 あ、実はこれ先イベントで活躍されました、KAIさんが、

> 置塩城の現地説明会の記述が詳しいサイトのURLを入れ
> ておきました。

 と先に教えてくれていたんですよ。これには、

> 時期は出土遺物などから天正年間前半(天正9年:1581ま
> で)と考えられます。

 と書いていますよね。

> この建物ができたのは廃城間際かもしれません。

 と書いたように廃城間際建設されたものではないでしょうかねー。
 「櫓」の専門家ではありませんが、このようなものが建設された理由は、鉄砲の出現と何らかの関係があるのではないでしょうか。

 ただ、このホームページにも、

・第4段階塼列建物

 とは一言も書いていませんよね。
 「第四段階」とは、4階の建物という意味ではないのかな?発掘調査報告書によく記載されていのは、「櫓風建物」とかあまり断定しない書き方が多いのですが、わざわざ、

・第4段階塼列建物

 と断定した書き方をするには意味があるんじゃないかな。

 詳しく調べて必ずここで報告しますので、しばらくお待ちください。

では、では。

http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou04/1106ke59130.html


[1487] 櫓発見を掲載したサイトURL 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/07/12(Sat) 18:46
ブレイズマンさん どうも

置塩城の通称本丸の発掘調査で櫓を発見と言う夢前町教育委員会の発表(平成15年)は、神戸新聞などの記事がネットに出ていますね。

私が参照した夢先町教委の許可済という櫓遺構発見の内容・写真を掲載した発掘調査結果のサイトURLを、ご参考までに載せておきます。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-nisikawa/hakkutu15.htm


[1486] 置塩の調査成果 投稿者:あぐ丸 [近畿] 投稿日:2008/07/11(Fri) 23:23
『播磨置塩城跡発掘調査報告書』は県立レベルの図書館には寄贈されているはずです。
播磨地域の市町立図書館や博物館相当施設にも寄贈されているはずです。
興味のある方は是非ご覧ください。


[1485] 第4段階塼列建物 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/11(Fri) 22:58
> 置塩城の廃城が1581年(天正9年)頃とされるのは、
> 同年4月26日に三木合戦で別所氏を滅ぼし播磨国中の統
> 一支配を果たした秀吉が出した国中の不要な城に対する
> 「城割り(破却)」令によるからではないでしょうか。
> この城割りでは、置塩城の他にも高砂城、神吉城、豊地
> 城、福中城などが破却され、その用材が姫路城に運ばれ利
> 用されたとか。
> 姫路城の搦め手口に通じる「との一門」が、置塩城大手門
> の移築であると言われていますね。(そう言えば他の漆喰
> 塗りの櫓門とちがって板張りの古風な造りの門ですが)

 おーーーーさすがですねー。堀城だけではなく、置塩城も詳しいんですね。
 その通りです。
 たしか、赤松則房が最後の城主で、四国に配置換えになるんですよね。「城割り」はその時ではないかと推定されています。

 ちなみにこの「城割り」という言葉、観音寺城でおなじみの「六角氏」が最初に実施したと言われています。

> 私の周辺では教育委員会の発表が即正論とは限らないとい
> うのが定説です。

 こちらに関しては、

1.「1581年前後に廃城になった」と教育委員会が発表したとは一言も書いていない
2.「教育委員会の発表が即正論」とは一言も書いていない

 その点もし誤解されているならば、ここで改めて訂正しておきます。

 で、話を天守に戻しますが、資料を再度探していましたら、

「第4段階塼列建物」

 という記載がありました。
 ただ、僕の持っている資料にはきわめて短く書いてあるだけで、なんで、第3段階塼列建物や第5段階塼列建物ではなく、

「第4段階塼列建物」

 という事が発掘調査で分かったのか、不思議だったんですよね。で、

> 確か天守、もしくは櫓があった事が発掘調査で分かったと
> かありませんでしたでしょうか?

 と皆さんにお聞きしたわけです。
 発掘調査資料に関しては、

・大阪市立中央図書館

 にあることが突き止めましたので、今度見てみるか、もくは、姫路市の教育委員会に電話してみます。

では、では。


[1484] 帰雲城 投稿者:揚羽 [近畿] 投稿日:2008/07/11(Fri) 19:53
本岡さん、こんばんは。

先日書き込みした内ヶ島氏の居城「帰雲城」の件ですが、
白川郷から東海北陸自動車道の荘川インターへ向かう156号線の道路脇に「帰雲城埋没地」の看板がありましたので、すぐわかりましたよ(^O^)

私が行った翌々日に東海北陸自動車道の飛騨〜白川が開通しましたので、もし開通後だったら見つけられずに帰ったかも(^^;;
ラッキーでした。

まあ、城跡といっても“某番組”に出てた石碑の写真どおりで、何もなかったですけどね〜(笑)

埋蔵金伝説で有名なところですが、ちょっとやそっとじゃ発掘できないような山の中でしたよ(^^;;


書き込みついでに…

先日、数年ぶりに三木城に行ったんですが、案内板がきれいになってますね〜
以前の錆びまくった合戦絵巻も生々しくて好きだったんですが、新しいのもなかなか良かったです。

では、また書き込みしますね〜

揚羽さんこんばんは。

帰雲城埋没地という看板があるんですか。
もうなかなかあそこへは行く機会がないでしょうから
残念です。


新しくなった三木城の案内板を見られましたか。
前のものもよかったのですが、この新しいものは力入ってますよね。
1枚ずつ丁寧に写真を撮ってしまいました。(^-^

[1483] 置塩城のことなど・・ 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/07/11(Fri) 19:10
本岡さん、皆さん、こんばんは

置塩城の廃城が1581年(天正9年)頃とされるのは、同年4月26日に三木合戦で別所氏を滅ぼし播磨国中の統一支配を果たした秀吉が出した国中の不要な城に対する「城割り(破却)」令によるからではないでしょうか。
この城割りでは、置塩城の他にも高砂城、神吉城、豊地城、福中城などが破却され、その用材が姫路城に運ばれ利用されたとか。
姫路城の搦め手口に通じる「との一門」が、置塩城大手門の移築であると言われていますね。(そう言えば他の漆喰塗りの櫓門とちがって板張りの古風な造りの門ですが)

黒井城は、明智軍によって落城した後に斎藤利三が預かり、明智氏滅亡後は堀尾吉晴、そして関ヶ原戦後は家康に臣従した川勝秀氏が城主になっており、豊臣時代後期まで存続した城であることは史実ですね。
赤井氏が城主であった頃からは、改修拡張されたと考えるのが、石垣などの現状遺構から私的にも妥当と思えます。

置塩城本丸の天守ですか…。
発掘調査報告によれば、主廓(通称本丸)の南側端部の近くの土壇(12.4×6.5m)上に、外壁に磚(せん)を貼った櫓(10×4.2m)の遺構が発見され、瓦も少量ながら出土したと言うことですね。

まぁ、土蔵造りの櫓状の建築物があったということは事実として、
それが二階櫓だったのか三階櫓だったのかまでは現段階では…?

また、天守という呼称は織豊期以後のものですから、
主廓と考えられる廓に、後の天守と同じ目的をもつ櫓があった可能性はあるということでしょうか。

少量の瓦ということから私的に考えると、萱葺き屋根に軒部分だけ瓦葺の構造もあるかな…とも(笑)


[1482] 置塩城の廃城年代 投稿者:軒丸瓦 [中国] 投稿日:2008/07/11(Fri) 16:19
置塩城の廃城年代ですが、なぜ1581年前後と考えられるのでしょうか?

私の周辺では教育委員会の発表が即正論とは限らないというのが定説です。

金箔瓦も従来織豊期のみのものと言われてきました。しかし江戸前期の諸大名の江戸屋敷、江戸幕府後の城郭でも発見されています。

兵庫にお住まいでしたらご存知と思いますが、丹波黒井城の登山口の案内板には、戦国期のみ存続したみたいな記載です。石垣の角の算木積み、瓦の出土などからどう見ても豊臣期まで存続した城郭です。

教育委員会の発表を城郭研究家は皆、正論か考え考察していっています。そういうことが城郭に関心のある者の責務ではないでしょうか?

そうしないと城郭初心者に間違った知識を植え付けると思うのです。城郭には皆天守があったと考えている人がたくさんいるのもそういうとかろからだと思います。


[1481] 置塩城に天守はあったのか? 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/11(Fri) 01:06
> ただ兵庫では置塩城と同じような例で有岡城(伊丹城)が
> あります。

そーですよねー、確か文献に永正17年(1520年)正月に天守の記述が読み取ることができ、これが文献上の所見とされていますよね。

> あとは八間四方程度あれば三層天守の可能性も高まりま
> す。

発掘調査報告書ですかね、えーと「第4段階塼列建物」が明らかになった、と書いていたのではないかと思います。1581年前後に廃城になったと思われますので、この建物ができたのは廃城間際かもしれません。

> 置塩城の現地説明会の記述が詳しいサイトのURLを入れ
> ておきました。

有難うございます。ただこちらには、「第4段階塼列建物」という記載は一切見られませんね。
僕の情報は間違いかもしれませんが、この時は平成15年度と書いていますので、その後の情報かもしれません。

今度教育委員会に一度電話してみようかな。

そーでしたか、本丸でしたかー。あんなところに。
まー天守と呼べるものがあったかは、今現在でも不明ということなんでしょうかね。

では、では。


[1480] レスいろいろ 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/11(Fri) 00:37
> 多重土塁は法界寺山上付城から、大塚城、シクノ谷、小林
> 八幡神社などを経由する部分に残っています。
> 三木城の包囲網でいうと、南西から南に至る4キロ超の長
> さです。

 おー4キロも。すごい。
 多重とうことは、ポコポコポコとこぶのようになっているでしょうかね。

> 探してみてください。
> 赤いビニールテープでマーキングされているところが多い
> ので注意深くみれば探索のヒントになると思いますよ。

 了解しました。

> 大阪城の写真は焔硝蔵のものです。
> たまに公開されることがありますよ。きっとオーサカキン
> グのころは入れるかもしれません。

 あ、実は本日行ってきたんですよ。
 西の丸でしたかね、ありました。が、おっしゃているように、オーサカキングでしたかね、入園することもできませんでした。残念。

> 「城人」の帽子をかぶってる人です。

 おーそーなんですかー。
 という事は管理人さんが真ん中の方ですか?

続きがあります。


[1479] RE:置塩城に天守はあったのか? 投稿者:KAI [近畿] 投稿日:2008/07/09(Wed) 18:46
なにぶん素人ですので
聞きかじりで、しかも、あやふやな記憶になりますが

通称本丸の南辺中央で、低い土塁で囲まれた内側に磚が見つかっています。
ここに櫓が建っていたのではという話でした。
リップサービスも含まれてると思いますが
展望の利く南辺の中央に位置することから
シンボル的な櫓であり
天守の先駆けとなるようなものだったという話もありました(^^)

置塩城の現地説明会の記述が詳しいサイトのURLを入れておきました。


>本岡さん

写真だけ提供したかのようにも読めるようにぼやかしたのに
そんなにはっきり書かなくても(笑)

http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-nisikawa/index.html


[1478] 兵庫県内の城郭の天守発生 投稿者:軒丸瓦 [中国] 投稿日:2008/07/09(Wed) 11:15
プレイズマンさん、本岡さんこんにちは。
置塩城の天守のことが話題にありましたので一筆したいと思います。兵庫、備前、筑前は織田政権の城郭文化(織豊城郭文化)が浸透する以前から城郭に瓦を使用していたことが確実視されています。ただ北部九州では瓦に伴う櫓台は確認されておらず御殿的な居住建造物に瓦を使っていたと考えるのが妥当と私は思います。
ただ兵庫では置塩城と同じような例で有岡城(伊丹城)があります。こちらは天正期の瓦と櫓台が確認されており、近世城郭の先駆をなすものだったと考えられます。そのほか兵庫県には秀吉により落城、廃城されたにも関わらず瓦が出土する城郭があります。ただ天守建築が遺構から確認されていないことから、これらは筑前と同じような瓦使用例だったのではと考えられます。
しかし有岡城は少なくても荒木村重が織田政権と関わりを持っていることから織豊城郭とも位置することが出来ますが、置塩城は秀吉により落城されてからの記録がないことから従来織豊城郭として意識されてきませんでした。しかし兵庫、備前、などでも櫓台と瓦のセットの城郭は織豊城郭化された城郭しか見当たりません。
最近では秀吉が置塩城をしようしていたのではという説さえあります。私は賛成したいです^^(いろいろ考えて)
瓦が出土したから即天守ありの考察は危険ですが、櫓台(それも石垣を伴う)とセットになっていれば瓦葺きの天守建築に近いものが存在していたと考えていいのではないでしょうか?あとは八間四方程度あれば三層天守の可能性も高まります。


[1477] 置塩城に天守はあったのか? 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/09(Wed) 00:19
> お城めぐりナイトの置塩城の写真
> 実は、僕が撮ったものです(^^ゞ

 あらーそーだったのですかー、ご苦労様です。
 イベントで真ん中に映っている方でしょうか?

> 台所廓ではなく、その西、馬場とか呼ばれる二の丸と三の
> 丸の間の通路を東側から撮ってます。

 はいはい、というと写真の東側ってかなりの崖ではなかっでしょうか?

> あるのは発掘調査の説明会で撮った局所的な写真ばかり
> あと、石垣の写真はあるんですが
> それだと、置塩城の魅力の表面的な部分だけがクローズア
> ップされるようで嫌だったので、あえて、分かりづらい写
> 真を使いました。

 なるほろー。
 置塩城って、二の丸でしたっけ?確か天守、もしくは櫓があった事が発掘調査で分かったとかありませんでしたでしょうか?
 なにかその辺のご存知のホームページがあれば是非教えてください。

> 中世山城の魅力を写真で表現するのって難しいですね
> (^^;)

 まったくその通りですね。やっぱり動画でしょうかね。

> まじめにはできるんですが、面白おかしく盛り上げつつや
> るのは難しいですね。

 にぁははははは、ご苦労様です。
 しかし、ホームページの内容は十分笑えました。というか、一人で爆笑していました。
 なかなか笑いのつぼも心得られているようで。

では、では。

http://tcc.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/by_p_78bb.html

部分的に(^^;

>イベントで真ん中に映っている方でしょうか?

「城人」の帽子をかぶってる人です。

[1476] レス色々 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/09(Wed) 00:07
> あとは市内を走る多重土塁が私にはとても興味深いのです
> が、きっとあまりにもマニアックすぎますね(笑)。

 ほー、多重土塁ですかー、それはちょっと興味あります。
 市内を走るというと、どの辺になるのでしょうか?

> 観音寺城の”ピラミッド”というと抵抗ありましたが、で
> も見に行ってみたいと思いました。

 ピラミッドは正しい言い方ではないと思うのですが、ピラミッドみたいな石組みはなんなのでしょうか?
 うーーーん・・・・謎です。

> 大阪城の写真は焔硝蔵のものです。
> たまに公開されることがありますよ。きっとオーサカキン
> グのころは入れるかもしれません。

 ほーほーというと、石山本願寺跡周辺になりますかね。
 今度行ってきます。

> あそこは本丸も確かにいいのですが、私には西の丸の土の
> 城が意外と興味深く、面白かったのを覚えています。

 えーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
 しまったー。
 そーだったのですか。聞いておけばよかった。
 実は西の丸、行こうか迷って途中までいったのですが、急な坂だったので諦めたんですよね。

> それら砦群まで行かなくても本丸奥にある西ノ丸だけはお
> 奨めしておきます。豊富な石垣に守られた本丸とは趣を異
> にし、土塁や櫓台、堀切、切岸により形成している”土の
> 城”である西の丸は完全に別の城跡ですね。

 とちゃんと書いておりますね。
 ちゃちゃちゃー、行っておけば良かったー。残念。本丸の綺麗さで達成感があったので。
 また、行きます。

 皆さんも行く前には「城めぐ」をチェックしておくことをぜひお勧めします。

続きがあります。

http://www.siromegu.com/castle/hyogo/kuroi/kuroi.htm

多重土塁は法界寺山上付城から、大塚城、シクノ谷、小林八幡神社などを経由する部分に残っています。
三木城の包囲網でいうと、南西から南に至る4キロ超の長さです。
見た目にわかるものもあれば、言われなければわからないものいろいろです。

探してみてください。
赤いビニールテープでマーキングされているところが多いので注意深くみれば探索のヒントになると思いますよ。

[1475] 置塩城の写真 投稿者:KAI [近畿] 投稿日:2008/07/08(Tue) 19:06
プレイズマンさん、お久しぶりです。以前、カベノ城の件でお世話になったKAIです。

お城めぐりナイトの置塩城の写真
実は、僕が撮ったものです(^^ゞ
台所廓ではなく、その西、馬場とか呼ばれる二の丸と三の丸の間の通路を東側から撮ってます。

置塩城は大好きな城で、年に何度か登ってるのですが、改めて振り返ると写真をあまり撮ってないんですよ(^^;)
あるのは発掘調査の説明会で撮った局所的な写真ばかり
あと、石垣の写真はあるんですが
それだと、置塩城の魅力の表面的な部分だけがクローズアップされるようで嫌だったので、あえて、分かりづらい写真を使いました。

中世山城の魅力を写真で表現するのって難しいですね(^^;)

おーー、KAIさんご無沙汰です(^^;。

置塩城の写真は撮り直しにいかないんですか?w

そうそうこんどは何かテーマを1つしぼるのもいいかもしれませんね。
陣城とか・・。

まじめにはできるんですが、面白おかしく盛り上げつつやるのは難しいですね。

また検討よろしくお願いします(^^;


えっと何の話でしたっけねぇ。

[1474] イベント大成功で 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/08(Tue) 00:10
> かなり適当なレポートですが、まぁご愛敬で(笑)

 見ましたよー、なかなかたのしそーなイベントで。

> 人に聞き、何もない住宅地で・・・

 爆笑。まさにこの通りですね。特に大坂の城関係は。

> 自分たちで作ってしまします。これは、熊を遠ざける鈴。

 いいですねー、これ僕も欲しいです。

> 本岡さん:見えるんです。

 見えますよねー、置塩城をばかにしたらいけない。
 これは台所廓ではないでしょうか?

> 本岡さん:見えてくるでしょう、城が。

 あはははははは、これは笑えますね。
 見えます、見えます。

> ではクイズコーナー!(答えは最後に)
> Q1:みなさんもよく知っているはず。
> 答:Q1:大阪城

 へーーーーー、これ大坂城なんですかー。
 場所はどの辺りなんでしょうか?

 大阪でもこーゆーイベントあればいいですね。


 あっそーそー、兵庫の黒井城に行ってきました。
 びっくりしたのが、全面芝生が植えてあって、めっちゃ綺麗でした。また眺望が素晴らしい。木を全部切ってしまっているのですね。今までで眺望なんばー1でした。
 ただ、あまりにきれいだったので、日本の城ではないような気もしたのですが。

では、では。

http://tcc.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/by_p_78bb.html

大阪城の写真は焔硝蔵のものです。
たまに公開されることがありますよ。きっとオーサカキングのころは入れるかもしれません。

黒井城を気に入られたようですね。
あそこは本丸も確かにいいのですが、私には西の丸の土の城が意外と興味深く、面白かったのを覚えています。

でもちょうどいまの季節に山ダニにやられたことがあるのであまりあちこちいってると悲しい目にあいます(^^;


[1473] レス色々 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/07(Mon) 23:53
> 仕方ないので近所の三木市の土塁でも見ておきます。

 そーそー、三木市と言えば三木城ですかね。
 近所という事もあって、今度行ってこようかなーと思っています。
 三木城見どころがあれば、是非教えてください。

> ブレイズマンさん、小谷城はいいですよ、
> 大獄や、ほかにも別峰で独立した郭、砦もありますし
> 一大城郭です。

 にぁははははは、実は7月末に行く事にしました。
 楽しみです。

> ピラミッドっておっしゃってるのは門跡なんでしょうか。
> 配置状況も考えればもうちょっとましな言い方もできるか> もしれません・・(^^;

 そーですねー、門跡ではありません。
 曲輪の中央部分、名前で言うと、

・平井曲輪
・池田曲輪

 で大小5つ程度みたように記憶しています。

> あと暗渠とおっしゃってるのは、たしかに自然なへこみじ
> ゃなくて石組みがみえますね。
> 観音寺城は何度も積み替えられていますからその関係なの
> かもしれません

 なんなのでしょうかねー。

続きがあります。

http://www.siromegu.com/castle/hyogo/miki/miki.htm

三木のみどころは結構ありますよ。

鷹ノ尾城の土塁とか、大塚城、ほか私のサイトでめぼしい陣城をピックアップしてください(^^;。
あ、でも秀吉がいたとする本陣は別にありますのでご注意を。(全然更新してなくてすいません)

あとは市内を走る多重土塁が私にはとても興味深いのですが、きっとあまりにもマニアックすぎますね(笑)。

観音寺城の”ピラミッド”というと抵抗ありましたが、でも見に行ってみたいと思いました。

最近、滋賀県がご無沙汰なんですよ
佐和山城以来です・・。安土とセットでぜひとも行かないと。

ありがとうございます。

[1472] 野田城行ってきました 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/07/07(Mon) 23:42
> そう考えると野田城の碑には感謝しないといけないかも
> しれませんね(^^;

 野田城は確か近くに極楽寺がありましたでしょ。この極楽寺は野田城と密接に関係しているので、比較的推定しやすいんだと思います。

> 今やマンションが建とうとしてますけど。
> もう建ってるのかな?

 建ってました。
 なかなかきれいなマンションでしたよ。

> ひょっとしたら何か有力情報が出てくるかもしれません
> ね。
> 私はとっくに諦めてしまってましたが、ブレイズマンさん
> の粘りならば、何かつかまれるかもしれません。
> がんばってくださいませ

 了解しました。時間はかかるかもしれませんが、文献はいろいろあたったみます。が、大阪市立図書館の司書の人も「無理かも」と言っていたので無理かもしれませんね。

> 鳥羽城のは発見じゃなくて、石垣の発掘現場
> を見ることができたというものです。
> でも現場にはまったく説明文章がないので興味をもたれて
> ないのかな?と不安になりますが(笑)

 そーでしたかー。
 まー、今後じゃないでしょうかね。

続きがあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%9F%8E_%28%E6%91%82%E6%B4%A5%E5%9B%BD%29

ブレイズマンさんこんばんは。

野田城のマンションはちょっと気になってました。
といってもネタ的にでしたが。

福島城は難しいと思いますが、がんばってみてください。

[1471] あと・・・ 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/07/07(Mon) 22:00
松尾城の情報です。

http://y-manabe-web.hp.infoseek.co.jp/misima/matuo.htm

MASAYUKIさんありがとうございます。
のちほど確認してみます。


[1470] お城めぐりナイト 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/07/07(Mon) 21:50
僕も一度だけでも、お城めぐりナイトに参加してみたいのですが、小学生だし、四国に住んでいるので、なかなかです。本岡さん、また、このような企画をしてください。無理なお願いかも知れませんが、愛媛、香川、高知、徳島、広島、岡山、兵庫、大阪、の辺りでしていただければと思います。いつかお願いします。それは無理かもしれませんが、このような企画を、もう一度だけでいいのでお願いします。
すごくうらやましいですーーーーーーーーーー。

MASAYUKIさんこんばんは。
うれしいお言葉、ありがとうございます。

私も東京までいくのは結構大変で、しかも自腹ですので(;_;)、ばかになりません。

できれば関西でもと思うのですが、なかなか実現できそうな場所がないんですよ。人数が集まるのかというのもありますが・・。

また同様のイベントは構想にありますが、それよりもオフ会でしたら関西でもたまにやっていますよ。

うーん・・でもあまりここでの告知をやっていませんでしたね。

今度関西でそういう機会がありましたらぼそっと告知してみます。

でも四国ではやったことないです。
申し訳ないですが(^_^;;

[1469] 岐阜遠征(^^;) 投稿者:揚羽 [近畿] 投稿日:2008/07/06(Sun) 00:49
本岡さん、こんばんは。
毎日暑いですね〜

久々に書き込みします。

1日〜3日まで岐阜に家族旅行に行ってきました。
家族旅行なのですが…せっかく岐阜まで来たんだから城めぐしない訳にはいきませぬ(笑)

まず初日、いきなり岐阜城に1歳の息子を抱っこして登り、死にそうになりました(^^;;
その後、下呂温泉に向かう途中で小倉山城をみつけてしまい寄り道…

2日目は下呂温泉から飛騨高山に移動して高山陣屋を見学した後、宿に着いたら高山城のすぐ下あたり…ってことで4城目(笑)

3日目は白川郷に行ったんですが、行く途中で広瀬城跡と高堂城跡を発見!もちろん寄り道(^^;;
白川郷でも荻町城跡をしっかり見て、帰りには帰雲城埋没地も発見しました。

それで帰るつもりが…ついつい郡上八幡で高速を下りて、八幡城にも寄っちゃいました(^^;;

家族旅行で久々に城三昧…城好きな嫁さんで良かった〜(爆)

揚羽さんご無沙汰しております。

家族旅行を最大限に使っての城攻め素晴らしすぎますよ。

でも一番驚いたのは「帰雲城」ですが、車でふらっと寄れるような場所だったのでしょうか?

山深いイメージがあったので昨年訪れた時はスルーしてしまい、昨年末の某番組では悔しい思いをしたのを思い出しました(^^;

なかなか一人で気楽に城攻めが難しくても揚羽さんのようにすれば結構めぐれるものですよね。

またどこかに行かれたらお聞かせくださいませ。

[1468] オヤッ!? 訂正です 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/07/05(Sat) 21:56
いつのまにか居住地が北海道で、
イメージもイケメンの光秀さんに…(笑)

…で、旧に復して訂正します(汗)

ご丁寧に(^^;


[1467] 香山構居と香山城のこと・・ 投稿者:阿弥陀の住人 [北海道] 投稿日:2008/07/05(Sat) 21:53
こんばんは

例年より早く梅雨が明けそうですね。
このところ、夏場の山城巡りは下草の茂りもあって不向きな季節と、
平場の構居跡巡りなどを中心にしています。

しかし、時として山城を攻めてしまうこともあったりで、
先日には神崎郡福崎町の日光寺山にある山寺を訪ねたついでに、
ここまで来たんだから、ままよとばかり、
藪こきしながらも高峰山城跡へ攻めかかってしまったり(笑)

今日も今日とて、
たつの市新宮町香山にある天王山(古神道の神奈備山?)を訪ねての帰り、
大歳神社の南北に広がる香山構居の森がふっと眼に入り…、
まぁ麓の構居跡ならそれほどのこともあるまいと…、
思ったのがまちがいのもと、
あの総石垣の郭群と石塁や竪堀に踏み込んだら、もういけません。
結局は藪こきしながら本丸跡まで攻め込んでしまいました(汗)

それにしても、香山構居の規模は並外れて大きいですねぇ。
大歳神社の説明板によれば、
南北郭を合わせた総面積は約69000u(21000坪)!?
香山氏は代々の香山庄地頭職で揖保郡北部ばかりでなく、
戦国末期には宍粟郡南部まで支配していたとされ、
300騎以上の動員力があったそうですが−。
家臣屋敷まで郭として取り込んだ構造であるためでしょうが、
縄張図を見てみたくなりました。

どなたか香山構居の縄張図かコピーをお持ちの方はいらっしゃいませんか?

それと、遺構を現地に見て思ったことですが、
十分には確認していないながら前面と側面の守りが堅固であるのに比べ、
山側の守りが極めて手薄なようで…?
大堀切などがあってしかるべきと思えるのに見当たらない。
これが、詰めの城(香山城)との関係からなら頷けるのですが、
香山構居の背後の山にあるらしい香山城を訪ねられた方は、いらっしゃいませんか?

阿弥陀の住人さんこんばんは。

この時期にほんとあちこちいかれてますねぇ。
頭が下がります。
最近はもっぱら雑務に追いまくられております。

香山構居の縄張り図は帰宅後ならわかりますが、
たしか持っていたと思います。

しかし山頂の山城とされる部分はほとんど遺構らしきものはなかったと、私の尊敬する方が行かれたときにうかがいました。

ただでさえじめじめした印象でいやな虫がでてきそうでしたが、この梅雨時期によくぞ行かれましたね。
ほんとその行動力は勉強になります(^^;

[1466] 虎御前山の各砦跡の遺構は・・・・ 投稿者:野間 [近畿] 投稿日:2008/07/03(Thu) 21:14
本岡さん こんばんわ
各砦跡の遺構は 私も よくわかりませんでした
ただ 秀吉の陣跡は3段になっていて 最も厳重な構造に
なっているのが 印象的でした
ほかの砦跡は さほど 印象に残るものではなかったと記憶してます

本岡さんが 秋に行かれたら 是非 詳しく教えていただきたいです

野間さんこんばんは。

うーん、秋はちょっと考えていることを具体化するかもしれないのでお約束できませんが、機会があればぜひ行きたいと思います。

しかし、行きたいところが次々と増えていくのは困ったものですね(^^;


[1465] お城めぐりナイト! 投稿者:ギュウセク [近畿] 投稿日:2008/07/02(Wed) 00:59
こんばんは。お世話になります。

イベント最高に楽しかったです。来た甲斐あったなと、未だに余韻に浸っております(笑)

イベントは大変でしょうが、次回もあれば楽しみにしています。

サイトの更新も楽しみにしていますね。

有難うございました。

ギュウセクさん、ありがとうございます。
初めての試みで、何がうまくいったのかよくわかりませんが(笑)、こんどはもっとうまくまとめたいと思います。

今後ともよしなに。

あ、城ベルご購入ありがとうございました。
ぜひご活用くださいませ。

[1464] お城めぐりナイト!無事終了しました。 投稿者:本岡 [近畿] 投稿日:2008/07/02(Wed) 00:07
本岡です。

すっかりサイト更新をサボって、イベントに集中しておりました。

当日参加くださいました皆様、ありがとうございました。

今月からはまたいつも通りに戻りますので、今後とも
よろしくお願いいたします。

なお、掲示板の反応も少しずつさせていただきます。

http://www.siromegu.com


[1463] はじめまして。 投稿者:月人 [東海] 投稿日:2008/06/30(Mon) 22:38
三重県のお城を検索していたら迷い込みました(^^ゞ
こんな世界があるとはびっくりです。

ここで一城。私のおすすめを♪
長崎の祖母の所へ行った時に何気に立ち寄ったのが原城跡☆
梶谷城跡の様に何もないのですが、とっても気に入って長崎に帰ったらまた絶対に行きます。

海に面した高台にあり、振り返れば普賢岳がそびえてる。目下は緑豊かで畑を耕す人。
こんなに平和で穏やか、心洗われる場所に立ったのは初めてでした。気分は天草四郎>^_^<
当時の事を思うと・・・ですが。

どうもお邪魔しました。。

月人様、ようこそお越しくださいました。
管理人の本岡です。

三重県のお城から原城につながっていくのは面白いですね。

先日のイベントでも原城は日本有数の死者が多くでた城として紹介されていました。
今は何もなくても見える人には見えるとか・・(^^;

すいません。私はまだいったことないのでぜひ訪れたいと思っております。

今後ともよろしくお願いいたします。

[1462] 四国、初上陸の巻 投稿者:若旦那 [近畿] 投稿日:2008/06/29(Sun) 21:09
こんばんは、四国デビューしました。
大阪駅からJRバス(往復で6480円)でおよそ2時間20分で徳島駅に、地下駐輪場でレンタサイクルを借りました。  4時間まで1日500円でした。

この日はなぜか博物館は入場料は無料でした。(庭園は別料金♪)
 内容は無料でしたので満足しました。

その後城山にSLそば(西の丸側)から登りました。
苔蒸した石垣がいい感じですが、やはり築400年を越えると木々が邪魔で景観は望めません。
東ノ丸側の石段に沢カニが多数生息していて驚かされると共に和まされました。

付近に「阿波踊り会館」(四国で得するパスポートのクーポン利用で)500円が400円(阿波ナビで検索・・観光案内を請求すると付いて来ました)
ひょうたん島一周クルーズ(無料+保険100円)・徳島ラーメンと石焼炒飯セット950円・駅そばのホテルサンルート徳島の「びざんの湯」(日帰り入浴、900円の手ぶらセット)などを安価で満喫でき内容が濃かった・その分お土産を買い込みました。

9月に沖縄に行きたいので7.8月の計画に悩みます。

若旦那さん、四国は初めてだったんですね。

でも徳島は近々狙っているので大変参考になりました。
暑いのでどうしようかなぁ・・・・悩みどころです。

ありがとうございました。

[1461] こんにちは 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/06/29(Sun) 11:07
昨日、結構前に言っていた松尾城(伊予)に行ってきました。草がたくさんあり、奥え進めそうではないので途中で引き返しました。おそらく、5分もあれば上れると思います。隣に、豚小屋があるので、臭いがすごいです、翠波高原(すいは)という看板について行ったら松尾城跡という看板が出ています。時間があれば来てみてください。

MASAYUKIさんこんばんは。

だんだん行きにくい季節になりましたね。
暑いし、下草もあって、さらに臭いんですか!!

かなり困難な道のりですね。

翠波高原の情報ありがとうございます。
今度の四国攻めではそっちには行きませんが、また
覚えておきます。

[1460] 明日はお台場「お城めぐりナイト!」 投稿者:本岡 [近畿] 投稿日:2008/06/27(Fri) 21:28
本岡です。

反応が鈍くてすいません。
明日はお台場「お城めぐりナイト!」で全力で準備中でございます。

遠くから来てくださる方も、楽しみにしてくださっている方
も精一杯その期待にこたえたいと思います。

がんばりますぞ!!


ということでもう少しお待ちくださいませ。

http://www.siromegu.com

疲れました。
疲れ切りました(笑)

ご参加くださいました皆様ありがとうございました。

会場側からライブレポートがあがってますので
ご紹介しておきます。

かなり適当なレポートですが、まぁご愛敬で(笑)

http://tcc.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/by_p_78bb.html

[1459] 夏草茂る頃となりましたねぇ 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/06/27(Fri) 12:05
こんにちは

本岡さん、元気にお過ごしですか?
夏草が生い茂るようになると山城を訪ねるのにはちと不向き…ですね。
…というわけで、近頃はあまり草木の茂っていない平地を主に廻ったりしています(笑)

この前の休日の例では、加東市の穂積陣屋(保隅城)とその陣屋門(了徳寺所在)、
、河高構居跡、加西市の満久城居館など…etc

穂積陣屋では、高速道路の南側の竹薮にも分断された土塁・堀などの遺構を発見!?
河高構居の跡地比定では、従来言われていた高速道路南側ではなく、
北側の現在は忠魂碑や水道施設がある丘(河岸段丘上)のような…とか。
そうそう、満久城の居館跡では、中の荒れて廃園のような庭園や、
城主の子孫の方の屋敷(ほとんど廃屋状態)も拝見できました。
道路(居館堀跡)を挟んだ南側の土塀の中の、現住の屋敷も、
かっての居館跡であったようですが、こちらも荒廃がひどかったですよ。
まぁ、荒廃した遺跡遺構にも“荒城の月”や“夏草や兵どもが夢の跡”の
風情は感じられますが…。

阿弥陀の住人さんこんばんは。

最近はいろいろと忙しくて全然城にいけてませんよ。

加西の満久城居館にいかれたんですね。
あそこはほんとすごい荒れようですよね。

Webページでは住人の方のこともあって詳しく書きません
でしたが、私も2度訪れて、お庭やご血縁の方のお話
など貴重なお話をうかがうことができました。


しかしまぁ・・夏草や虫が大変ですがどこか山城に
行きたいです!!

播磨だと大変ですが、但馬ですかねぇ。

[1458] あと 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/06/20(Fri) 21:02
それとあと、姫路城の情報ありがとうございました。おかげで、今年中に姫路城へ行くことになりました。
あと今学校の歴史の勉強で、いま室町時代の、金閣、銀閣のあたりを習っています。もうすぐで安土桃山時代に入るのですごく楽しみです。

MASAYUKIさん、姫路城楽しんできてくださいね。

うーん、しかし学校で勉強するまえに城が好きだなんて素晴らしすぎますよ。

歴史の授業が楽しくてしようがないですよ、きっと。

ふふふふ。

[1457] こんばんは 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/06/20(Fri) 20:56
今月の、14日に、高知県の、中村城に行ってきました。これで、四国の天守閣のあるお城を、制覇しました。
そのついでに宇和島城、大洲城に行って100名城のスタンプを押して現天守閣12城の通行手形にもスタンプを押してきました。通行手形は、松山城限定で、ロープウェイ乗り場の所などに置いてあります。
帰っていると、松前城跡と書いてあったのでよってきました。

MASAYUKIさんこんばんは。

四国の天守制覇お疲れ様でしたー。
中村城はまだいったことないんですよ。

私も近々四国に行こうと思ってます。
楽しみです。

また報告しますね。

[1456] 世紀の大発見、デハアリマセン 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/06/19(Thu) 15:44
写真UPしましたー。

お城さんマークに入れておきましたので、ご覧になって下さい。

で、何が疑問かというと、

1.
・なにかピラミッド状の石組み

ということで、曲輪のいたるところにこのピラミッド状の石組がありました。矢倉台にしては、小さいし・・・これはいったいなんなでしょうか。

ピラミッドパワーを六角氏が利用していたとか、そんなことはないか。

2.
・もう一つは石垣の下にあった不思議な穴

暗渠のようにも見えますが、これが不思議な点は、内側にある点ですね。もし水路ならば、石垣の外にないといけません。内側だと水をそこから放出する石垣の下がぐじょくじょになって、倒壊しやすくなります。

ここから槍か何か突き出して、石垣を上ってきた敵をやっつけたりするものなのでしょうか?

もし、ご存知の方がいればぜひ教えてください。

では、では。

http://photos.yahoo.co.jp/ph/i_bure/lst?.dir=/d978&.src=ph&.order=&.view=t&.done=http%3a//photos.yahoo.co.jp/

ブレイズマンさんこんばんは。

写真拝見しました。私はかなり以前に行ったので
まったく記憶がありませんが(^^;・・・。

ピラミッドっておっしゃってるのは門跡なんでしょうか。配置状況も考えればもうちょっとましな言い方もできるかもしれません・・(^^;

あと暗渠とおっしゃってるのは、たしかに自然なへこみじゃなくて石組みがみえますね。
観音寺城は何度も積み替えられていますからその関係なのかもしれません。

ではでは〜

[1455] 福島城その後 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/06/18(Wed) 01:32
 あ、それと福島城ですか、大阪市市立図書館に出向いて、いろいろと文献を探しました。
 そーしますと「野田城」に関する文献は数多く出てきましたが、

「福島城」

 に関する文献は皆無ですね。野田城が記載されている文献にも「福島城は分らない」とだけ記載されている文献が圧倒的でした。

 唯一、「日本城郭大系」に、

・大阪市福島区福島

 と記載があるだけでしたね。

 現時点ではそんな感じです。

では、では。

途中報告ありがとうございます。
難航されてますね。

何か新しい情報が見つかることをお祈りしております。

[1454] 残念 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/06/18(Wed) 01:25
> ↓のブレイズマンさんでしたか?

 にぁはははははは、残念ながら、僕が登頂したのは5月後半でしたね。
 で、僕は、

> 途中、500円の通行料を支払い、とろとろと登っていき
> ます。すると終点のところに車約5台ほど駐車できる駐車
> 場があります。

 と管理人さんと同じコースをたどったので、僕ではなかったです。

 小谷城はいいですねー。
 山城ではすごく有名で一度は行ってみたいなー、と思っています。

では、では。

ブレイズマンさん、小谷城はいいですよ、
大獄や、ほかにも別峰で独立した郭、砦もありますし
一大城郭です。


[1453] 小谷・長浜・観音寺城 投稿者:若旦那 [近畿] 投稿日:2008/06/17(Tue) 19:04
 本岡さん、こんにちは。
6/1に久々にマイカーでの攻城をしました。
 たとえ片道だけでもETCの割引を利用するために4:30の出発で6:30に長浜インターを降りました。
 さすがに時間が早過ぎるので(笑)
先に、長浜城と駅前の秀吉・三成の出会いの像・一豊初所領の地・河毛駅前の長政・お市の像を撮影してから
 いざ、小谷城へ登城です。
番所跡付近まで車でいきそこから徒歩で・・・

 連郭式の山城を堪能いたしました。
又、長政自刃の地では「さぞや、無念であったろう。」
 御局屋敷跡では、こんな場所で着物を着て暮らしていたら「不便だろうな。」と余計なことを考えてしまいます。

山王丸でいい時間になったので下山しスタンプを押捺、後に姉川古戦場に立ち寄り再び長浜市内へ・・・
 フギィア館(海洋堂)を見学、昼食は「のっぺいうどん」彦根城をかすめて観音寺城へ向かいました。

天守の舘にも立ち寄りたかったので
例の、林道を利用させていただき本丸跡のみでしたが散策しました。
 そこで、城めぐりの猛者らしき人と出会いました。
「どこから登ってきたのですか?」との問いに「林道から・・・」と答えましたが、ひょっとして

↓のブレイズマンさんでしたか?
  

若旦那さんこんにちは。

ひょっとして100名城のスタンプラリーでしょうか?
最近のガソリン高騰でなかなか思い切った遠征が
できておりません。

あーー!私は安土行きたいです。

仕方ないので近所の三木市の土塁でも見ておきます。
(って全然違う・・orz)

[1452] 観音寺城 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/06/14(Sat) 00:43
> 観音寺城で見つけられた不思議なものって何でしょう?
> ひょっとしたら大発見なんでしょうか。

いやーーーそんなものではないと思います。

・なにかピラミッド状の石組み
・もう一つは石垣の下にあった不思議な穴

ですね。近日中に写真アップしますので、ご存知ならば教えてください。

> しかし、行きたいなと思っていた観音寺城もシーズンオフ
> でしょうね。
> また下草がなくなる季節まで待たないといけませんねぇ。

いやー、観音寺城は下草の心配はないと思いますよ。

それはそーと、

>> ちょうど石垣の発掘をされていましたので貴重な
>> 光景も見れました。
> おーーーーそーでしたか。
> なんか新発見とかありましたか?

と聞いていましたが、鳥羽城でなにか面白い発見ありましたか?

では、では。

ブレイズマンさん

観音寺城のことはあとの書き込みに反応させていただくとして、鳥羽城のは発見じゃなくて、石垣の発掘現場
を見ることができたというものです。

でも現場にはまったく説明文章がないので興味をもたれてないのかな?と不安になりますが(笑)

[1451] 天神社 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/06/14(Sat) 00:32
> ブレイズマンさん
> しばらくでした(笑)

どもでーす。

> 野田城の位置は、字などの地名をよすがに、
> 現在の福島区玉川4丁目辺りに比定されていて、
> 石碑なども建てられているようです。

そーですねー、野田城は管理人さんのホームページにも記載がありますので、「大阪」の部分をクリックしてみてください。

> ただ、野田城の近くと考えられることから、
> 現在の下福島辺り(天神社付近)ではと考える人もあるよ
> うです。

そーですかー、やっぱり「天神社」ですかー。
そーゆー話はよくネットでも出てきますね。

もし、なにか文献レベルでそーゆー事が記載されているのがあれば、皆さんも是非お知らせください。

詳しい場所は「お城」マークに入れておきましたので、ご覧ください。

では、では。

http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.68524889&lon=135.48536694&sc=1&mode=map&pointer=on

ブレイズマンさんこんにちは

ひょっとしたら何か有力情報が出てくるかもしれませんね。
私はとっくに諦めてしまってましたが、ブレイズマンさんの粘りならば、何かつかまれるかもしれません。

がんばってくださいませ

[1450] 福島城の位置 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/06/11(Wed) 09:39
こんにちは

ブレイズマンさん
しばらくでした(笑)

野田城の位置は、字などの地名をよすがに、
現在の福島区玉川4丁目辺りに比定されていて、
石碑なども建てられているようです。

しかし、福島城については、
そうしたものもなく、いまの福島近辺では遺構も判りません。
ただ、野田城の近くと考えられることから、
現在の下福島辺り(天神社付近)ではと考える人もあるようです。

阿弥陀の住人さん
いつもありがとうございます。

やはり福島城を比定するのは難しいですねぇ。
そう考えると野田城の碑には感謝しないといけないかも
しれませんね(^^;

今やマンションが建とうとしてますけど。
もう建ってるのかな?

[1449] こんばんわ 投稿者:若旦那 [近畿] 投稿日:2008/06/09(Mon) 20:05
津山では1日かけて散策いたしました、って言うかいきなり博物館で「今日は、博物館の日ですから・・・」と言って「津山の文化財」なる書籍(非売品)をいただき申し訳ない気持ちになりました。
そう言えば、以前に佐良山碑について調べていた方がおられた様な・・・バッチリ載っています。
 もし、まだ興味がおありならばご一報ください。津山市教育委員会1998年版ですが・・・

おっと、脱線しました。
お城は壮大な石垣、金具の細部までこだわった備中櫓
 廃城の話を聞くと本当にお城が好きで大切にされている事がわかります。
 今後は、本丸を発掘調査の後
平面整備するとのことでした。
できれば立体でお願いしたいですね。

とても感じのいい街でした、できれば再訪したい所の一つとなりました。

若旦那さんこんにちは。

たまたまとはいえ、ラッキーでしたね。
「津山の文化財」には思わぬネタが見つかったりしませんでしたか?

津山は4,5回くらい行ってますが、その都度復元が
進んでおり、いつも新鮮な気持ちで訪城しておりました。

街の印象はないので今度はそちらにも目を向けてみようと思います。
ありがとうございました

[1448] 堀城つづきー 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/06/09(Mon) 01:23
>> また、私の知る限りで堀城が史料に登場するのは
> という件に関しては、今いろいろと調べている最中なので
> 後日書きますね。

 以前、書いていたと思いますが、阿弥陀の住人さんが書いていた、

> また、私の知る限りで堀城が史料に登場するのは、元亀元
> 年(1570年)に三好三人衆と織田信長の間で闘われた
> 野田・福島の合戦で、室町幕府15代将軍の足利義昭が、
> 信長の要請によって9月2日に京都から出陣して、この細
> 川藤賢(幕府奉公衆)が城主であった攝津中島城(堀城)
> に入城したというものです。
> ただし、9月12日には石山本願寺の信長を敵とする挙兵
> があり、義昭は城を出て信長と合流しています。

 と書かれているように、恐らく「堀城」が有名スターになるのは、石山合戦の時だと思います。

 ただ、その後細川両家記をいろいろ調べてみると、それよりかなり前1510年前後より、堀城という記述があります。

> ちなみに堀城(中島城)は、この地を代々の領地とした細
> 川典厩家の城でしたが、

 と書かれているように、おそらく細川家の内紛で、細川高国方のどなたかが築城したのではないでしょうかね。
 で、新たに質問があるのですが、

> 野田・福島の合戦

 この福島城ってどこにあるでしょうか?
 おそらく詳しくはわからないと思いますが、なにか細かい情報でもご存知の方は教えてください。

では、では。

http://www.siromegu.com/castle/osaka/noda/noda.htm

ブレイズマンさん毎度です。

福島城は難問ですねぇ〜。
ここは場所を特定できないんじゃないでしょうか。


[1447] 虎御前山は4月くらいに・・・・ 投稿者:野間 [近畿] 投稿日:2008/06/05(Thu) 21:44
昨日、虎御前山に行って来ました
南麓の矢合神社(多賀貞能陣)の入口から北端まで一気に歩きました。約1時間ほどです。矢合神社の入口にハイキングコースの看板があります。陣跡ごとに各武将の名前が表示されていて、今どこにいるのかが非常にわかりやすくなっています。蜂屋頼隆(古墳)、丹羽長秀(キャンプ場中庭の端に石碑があります)、滝川一益(NTTドコモ?の鉄塔下)、堀秀政と続き、信長陣跡に到着します。しかしその次の秀吉陣跡が一番見応えがあります。曲輪跡が3段くらいになっていて、信長陣跡より凝った造りになっています。最後の柴田勝家陣跡を過ぎるとやがて斜面は急になり北麓の登山道入口になります。丹羽長秀陣跡のキャンプ場までは車でも行けますが、全部歩いても体力的には少しも消耗しません。傾斜はなだらかで山城をいくつか経験された方なら楽勝です。(約220メートルだそうですから)
キャンプ場北側の駐車場端(滝川一益陣跡へ向かうハイキングコース入口脇)に虎御前山のパンフレットが用意されています)堀秀政陣跡くらいからは草木がかなり伸びていて遺構が見づらかったのは残念です。また、小谷城を間近に感じる眺望を期待していたのですが樹木がかなり生えていてほとんど見えませんでした。柴田勝家陣跡から下り斜面に入るまでは足元が見えないこともしばしばでした。地元の人の話ではやはり4月頃がベストの訪問時期のようです。てくてく歩いてもとの矢合神社へこれで2時間くらいでした。
信長陣跡近くの信長先手陣(佐久間信盛?)に行くのを忘れてしまったのが残念です。

本岡さんは小谷城周辺はかなり詳しいんでしょうね。




 

野間さん、ずいぶんと遅いレスですいません。

そのあたりはほとんど言ってませんので全然詳しくないですよ。

ものすごく参考になりましたので、今度(といっても
晩秋かな)その辺を攻める際に使わせてもらいますね。

それぞれの陣は一応それらしく残ってるものなんですか?

[1446] 観音寺城で不思議なものを 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/06/04(Wed) 00:12
> 観音寺城にいかれましたね。
> いいですねぇ。

 あーそーそー、観音寺城で結構不思議なものを見つけたんですよ。皆さんにとっては当たり前のものかはわかりませんが、僕は初めて見ました。
 「これなんだろー」って。
 後日写真アップしますので、またご意見聞かせてください。

> もしよかったらご参加くださいませ〜

 え、東京ですよねー。
 ・・・行きたいのですが、恐らく仕事が・・・
 でも、管理人さんとはご近所のようなのでいつかはお会いしたいと思っております。
 また詳しい内容教えてください。

> ちょうど石垣の発掘をされていましたので貴重な
> 光景も見れました。

 おーーーーそーでしたか。
 なんか新発見とかありましたか?
 またホームページにも記載してくださいねー。

> 安威砦はまぁ近いことですので、またおいおいと・・(^^;

 そーですねー、でもいいお城だったのでぜひ行って見てください。

では、では。

http://yama46.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_1c84.html

ブレイズマンさんこんにちは。

観音寺城で見つけられた不思議なものって何でしょう?
ひょっとしたら大発見なんでしょうか。

楽しみにお待ちしております。

しかし、行きたいなと思っていた観音寺城もシーズンオフでしょうね。
また下草がなくなる季節まで待たないといけませんねぇ。

ではでは。

[1445] 高田城 その2 投稿者:jailboys [関東] 投稿日:2008/06/03(Tue) 18:03
納得いかないのでいろいろ考察したのですが・・・。

写真は2,30年前の紛れもない高田城でした。
が、しかし反転してます!!
鏡に映してみたら納得。

出版社に連絡したら、次の増刷から直すそうです^^^^。

jailboysさんこんにちは。

よくわかりましたね。
また出版社に連絡されるのもすごいですよ。

でもおかげで解決されてよかったです。
それに改訂される前の貴重な1冊になったようですし(^-^;

素人の私には信じられませんがなんで反転させた状態
がありえるんですかねぇ。
あと写真のチェックはなかなかわかる人でないと難しいんでしょうね。

大変だろうなと出版側の苦労が偲ばれます。

[1444] はぁ〜 投稿者:河内人 [近畿] 投稿日:2008/06/02(Mon) 22:31
せっかく、日照時間が1年で最も長くてその分撮影に時間を取れて、雨さえ降らなければ1番城めぐりに絶好の6月になったというのに・・・・フゥ(ため息)

そんな気分に水を差すことが・・・・。そう、またガソリン価格が上がった。そんな状態でも積極的に行かれる皆さんを羨望の眼差しでみております。
とりあえずは原チャで行ける範囲で画策しておりますが、仕事の都合でいつになることやら・・・・

チョットしたぼやきでした。

河内人さん、こんにちは。

ほんとガソリンの価格は頭痛い問題ですよね。
私ももっと燃費のいい車にしたらいいか、バイクで行こうか
と考えていると城に行く時間がなくなってしまう日々です(;_;)

車でぶらぶらしながらついでに城によるということが
やりにくくなった気がします。
ガソリンが高いんだから事前にしっかり計画立てて効率よく行かないと、と思うと行けませんね(^_^;

もう開き直るしかないでしょうね。

[1443] こんばんは! 投稿者:Kl [北陸] 投稿日:2008/06/02(Mon) 20:28
本岡さん、皆さん、こんばんは!

本岡さん、阿弥陀の住人さん、お返事遅くなってスイマセン(>_<)

はい!お寺の方に聞きました。

竹田城跡に行かれてたんですね!自分もまた行きたいです

小寺城の詳しい事は今度また聞きに行ってきます。

http://ameblo.jp/kl-meguri

Klさんこんにちは。
反応ありがとうございます。

急ぎじゃなくて全然構いませんので、お時間がありましたらまたよろしくお願いいたしますね。


[1442] 高田城 投稿者:jailboys [関東] 投稿日:2008/06/02(Mon) 19:29
はじめまして。
昨年の秋に松本城を観て以来、城めぐりにはまってます。
いろいろと30ヵ所うろついて来ました。^^

先日も高田城へ行って来ました。
で、ちょっと気になることが・・・・。
新人物往来社 発行の"空から見た日本の名城" 62ページ
にある高田城ですが、これって他の城郭と間違ってませんか??
ど〜〜〜〜も気になります。
皆さん教えて下さい。

はじめまして、jailboysさんようこそいらっしゃいました。
管理人の本岡です。

そういえばこの本、姫路城のページも反転してるそうですよ。

私はもっていませんがご確認ください。

でもよくお気づきになられましたね。
自分だったら気づくんだろうかと、ちょっとその本を
見てみたくなりました(笑)

[1441] 安威砦 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/06/02(Mon) 03:27
あっそれと管理人さん、安威砦で、

「安威砦の攻略は不十分な結果に終わりましたが一応アップしておきます(^^;」

と書いていますが、その後行ってこられましたか?

摂津国では、比較的良好な遺構が残る山城として、有名なんだそうです。
参考となるホームページを「お城」さんマークに入れておきますので、ご覧になってください。

この方のホームページにも、「それにしても見応えのある城が残っていて嬉しくなる。」と書いていますが、まったくその通り。

最初まったく期待していませんでしたが、行ってみてびっくりでした。

まだの場合、城マニアとしてはぜひ一度足を運んでみてください。

では、では。

http://yama46.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_1c84.html

安威砦のことは私も聞いておりました。

残念ながらまだ行ってないんですよ。
でも少し前に伊勢、志摩攻めを行いましてここで以前ブレイズマンさんが書かれていた鳥羽城にもいけましたよ。

ちょうど石垣の発掘をされていましたので貴重な
光景も見れました。

安威砦はまぁ近いことですので、またおいおいと・・(^^;

[1440] 観音寺城に行ってきましたー 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/06/02(Mon) 03:13
どもども、ご無沙汰していますー。

ちゃくちゃくと城めぐりを続けています。
今回は、細川高国さんといろいろ連携をしていた六角氏の巨城、観音寺城にいってまいりましたー。

感想、いやーーーーでかい。
さすが我が国最大の山城と言われている城だけはありますね。

前に山城に石垣はないと城郭大系に書いていたと、ここにも書いたと思いますが、観音寺城で石垣だらけではないですかー。なんか中世の城という感じで。

管理人さんのホームページにも「途中、500円の通行料を支払い、とろとろと登っていきます。すると終点のところに車約5台ほど駐車できる駐車場があります。」とありますが、僕もこれをちゃっかり利用しました。

にもかかわらず、AM10:30到着でしたが、駐車場についたのがPM3:30いやー、見る場所おおかったですねー。

ただ、文献を読んでみると、このような大きな城なのにも関わらず、防御が弱いと書かれていますね。

大変美しい城でしたが、防御となると・・・ちょっと素直すぎるような感じはします。
でも、廓の数も1000近くあるとか。置塩城80の郭と言って大喜びしていたのがウソのようです。

見ごたえたっぷりの観音寺城でした。

あ、それはそーと、

6/28に東京お台場で「お城めぐりナイト!」

ってあるんですかー、すごいですねー。

まー僕も兵庫なので出張がうまくいけば参加したいと思いますが、まず無理だと思います。
ですので、またどんなイベントだったのか、詳細のご報告お待ちしています。

では、では。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E

ブレイズマンさんこんばんは。

観音寺城にいかれましたね。
いいですねぇ。

安土とセットでスタンプを押しに行きたいですよ(軟弱者w


そうそう、6・28お台場「お城めぐりナイト」
を話題にしていただきありがとうございます(笑)

恥ずかしながら、トークライブなるものをやってしまいます。
遠く九州や、関西からも何人も参加くださるという
全国から城好きが集まってくださる楽しいイベントに
なりそうです。

もしよかったらご参加くださいませ〜

[1439] 前田藩の支城 投稿者:軒丸瓦 [中国] 投稿日:2008/05/30(Fri) 20:16
本岡さんこんばんは。
高岡城は私は行ったことがありませんが、北陸の城郭研究家の方がそうおっしゃられrていました。
GWは大聖寺城、船岡城、金沢城、小丸山城、富山城に行きました。直前までは天守の存在が噂される高岡城に行く予定だったのですが、富山城の慶長期の瓦を見せていただくお話になっていたので急遽、富山城に変更になりました。
大聖寺城は本丸に天守台を確認できました。あと天守台には少し石垣の痕跡、栗石の散乱が確認出来、当時天守台は石垣造り、それも折れを伴う虎口も確認できること等から織豊系城郭として位置できるのではと感じました。残念なのは瓦が確認できなかったことです。これは前田藩の支城では瓦は富山城、小松城しか確認されておらず、西国のように積極的な瓦普請をする藩ではなかったと感じます。小松城の出土の軒丸瓦を確認してもあまり古い感が持てず、元和令以降の作に感じますし、現在富山城の最古の瓦といわれる梅鉢紋軒丸瓦はコビキ痕の確認できる軒丸瓦が確認できないので確証はできませんがこれだけは元和令前後のものと感じるくらいです。つまり本城の金沢城と次に重要な富山城のみ瓦が葺かれていたみたいです。長くなるので省略しますが、前田利長が富山城火災後に築城したといわれる隠居城が高岡城です。伝承に過ぎませんが天守があってもまったく不自然でない状況、そして広大な聚楽第式縄張りです。いつか瓦という物的証拠の見つかる日を私は楽しみにしています。私自身が発見したいものですが^^。

軒丸瓦さんこんにちは。

高岡城はあまり興味を持たずに(^^;、行っておりましたので何も申し上げられないのですが、いつもながら
こだわりや目的を持ってお城に行かれる方は見方が
違うなぁと感心させれます。

大聖寺城は少し藪っている時に行きましたので改めて
再訪したいお城の一つです。

そういえば富山県はいい資料が入手できましたので
遠征を考えたいんですけどねぇ。

今は近場固めで精一杯です。(^^;
また勉強させてください。
ありがとうございました。

[1438] お久しぶりです 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/05/29(Thu) 18:19
姫路城の、工事について何か教えてくれえませんか。

こんにちは。


姫路市のサイトをご覧になるのが一番だと思いますので
ご紹介しますね。

http://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backnumber/200805/tokushu01.html

来年2021年から2026年までの長丁場ですが
このページでは大体の予定が入ってますので参考に
なるかもしれません。



[1437] 一乗谷の山頂の城は・・・・・・・ 投稿者:野間 [近畿] 投稿日:2008/05/26(Mon) 20:35
本岡さん、返事が遅れてすみません。
一乗谷の山頂の城への道は 特に危険ではありません。
今は安波賀コースから登ることしかできませんので
傾斜は緩やかです。しかし、3年前に庭園跡に行ったときは
英林塚コースの入口に「熊、危険」の看板がありましたので
熊鈴などの対策グッズはいると思います。
それと安波賀コース以外は傾斜も急で肉体的にハードと思われます。砂防ダムの工事もいつ終わるのか、残り2つのコースもいつから登れるようになるのか、全く未定のようです。
あと、遊歩道は歩きやすいのですが、一の丸、二の丸、三の丸は荒れ放題で とても曲輪とは思えませんでした。
千畳敷や宿直くらいに整備されていると「また行こうかな」
と思いますが・・・・・

野間さんありがとうございます。

やはり季節を選ばないといっても遺構が十分に確認
できなさそうですね。

やはり山城のオンシーズンに狙っていくのがよさそう
だと思いました。

この辺は100名城のスタンプついでにでも行ってくることにします。

詳細なご説明ありがとうございました。

[1436] 後藤陣山城について 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/05/19(Mon) 09:32
こんにちは

相変わらず休日にはマイナーな城跡などをうろついている私です(笑)

赤穂市の有年地区には八幡山城・鍋子山城・鴇ヶ堂城など山城跡の多いところですが、
有年牟礼と相生市若狭野福井の境界付近(宝台山か?)にある山城遺跡「後藤陣」あるいは「後藤陣山城」について、
本岡さん、もしくは皆さんでご存知の方はいらっしゃいませんか?

先週の土曜日に初訪せんものと、牟礼から矢野川沿いに遡り、
福井から左に入る山道を見つけて「これだ!」まではよかったのですが、
もう少しのところで鶏舎があるらしく「関係者以外立入り禁止」の標識…。
手前に車を置いて徒歩の道でもと探したのですが、
複数の道は見つけたものの、どれが山城遺構に至る道か判らず、残念でしたが夕方の時間切れで断念しました。

城郭体系にもあり、手許の資料でも「山上に大規模な遺構あり」とあるのですが…。
訪城された方はいらっしゃいませんか?

阿弥陀の住人さんこんにちは

私も後藤陣は訪れようとしたことがありました。
かなり前なので記憶がはっきりとしてませんが
車であがっていくとゲートが作られており、消毒
するようになっていました。
ちょうど鳥インフルエンザがはやっていた頃だったのでしょう。

私はそれ以上はいるのをやめて帰りましたので詳しくはわかりません。
かわりに知り合いの方が縄張り図を書いておられるのを
見てますとそんな大規模な遺構という感じじゃなかったですよ。

しかしほんとマニアックですね(笑)

[1435] こんにちは。 投稿者:若旦那 [近畿] 投稿日:2008/05/16(Fri) 16:57
本岡さん、ご無沙汰でした。

私自信も3/30に備中松山城と鬼ノ城に雨中のクロスカントリーをして以来の約1ヶ月の充電期間と言うか、妻が少々病を患ったので自粛していました。

落ち着いたのと、虫がウズキ出したので
 たったいま降水確率20%を信じ
5/18の大阪駅〜津山駅間の高速バスの予約を済ませました。
新幹線を使って岡山駅経由で行くのとさほど時間がかわらないのと、往復5340円と約1/4の運賃は魅力です。

今回は給料日前なので無理はせず(笑)
じっくりと津山をレンタサイクルで散策しようと思います。

若旦那さんこんにちは。
津山はいかがでしたか?

いい天気でしたね。
私は竹田城におりましたがいいお城日和でした。

私も給料日前ですので大変ですけどね(^^;
ガソリン代も痛いです・・。

[1434] こんなこともやっちゃいます。(^^; 投稿者:本岡 [近畿] 投稿日:2008/05/14(Wed) 00:12
本岡です。
少しだけ告知をさせてもらいます。

6/28に東京お台場で「お城めぐりナイト!」という
トークイベントを開催いたします。

詳しくは以下のURLで。(先頭にhをつけてくださいね)

ttp://tcc.nifty.com/cs/catalog/tcc_schedule/catalog_080501187453_1.htm

もしご興味ございましたらどうぞお越しくださいませ。

http://www.siromegu.com


[1433] 小寺城についての? 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/05/13(Tue) 13:40
こんにちは

本岡さん
そうですねぇ、そのうち何処かマイナーな城跡でお会いすることがあるかもですが、
その時は、私の方こそよろしくお願い致します(^^ゞ
休日が基本ですが、コンデジ片手に遺構の片隅まで首を突っ込んだり、写真撮影しているオッサンが眼につきましたら、気軽に声をかけてやって下さいf(^^;ポリポリ

掲示板を拝見していましたら、
小寺城の位置についてのKLさんの書き込みを拝見して−、

小寺の太谷寺は、寺伝によれば奈良時代の聖武天皇の神亀3年(西暦726年)に僧行基が開いた古刹とされており、創建当時は頭高山(現在の神戸市営地下鉄の学園都市駅付近)にあって、学園都市の開発に先立った調査で寺院遺構が確認されたとあります。

−で、KLさんの小寺城の位置についての書き込み−

>小寺城跡の場所が分かりました。やはり場所はお寺から多少ずれてましたね。すぐ近くで城跡は民家でした
>学園都市の近くに頭高山って山が昔あり、そこに昔の太谷寺があったみたいで、そこに城があったみたいです<<

−んっ!?…なので、おたずねしたいのですが、
戦国時代に小寺城が頭高山の寺付近にあったとすると、現在の太谷寺がある小寺の集落からは、かなり離れています。
KLさんのブログも拝見したのですが、
…とすると、小寺集落の民家がそれだという城跡とは、何なのでしょうか?
もしかして、詰めの城と居館のような関係ということでしょうか?


小寺地区は、昭和56〜60年に行われた土地改良事業によって、
小寺の集落の中以外は、山も耕地も様相が昔とは一変しているでしょうから、
文化財の遺構も特別に保存されたもの以外は完全に消滅していると思えます。
また、小寺城については、伊川城や端谷城のような文化財としての記録も調査もないようです。
とすれば、地元に残る古文書や伝承に頼るしかないということになりますが、
太谷寺のお坊さんから、その辺りが確認できたらいいですね。

私的には、小寺城の城跡について、気になるのが小寺厳島神社の境内地です。
地元では「小寺の弁天さん」と親しまれている神社ですが、その創建は不明のようです。
江戸期の宝永6年(1709年)に小寺村の庄屋が明石藩に出した報告書に、「弁財天女」や「踊堂森」「阿弥陀森」などとあり、それ以前から神仏混交の祠があったらしいことは窺えます。
中世の構居(小さな城砦)の跡が、江戸期に神社やお寺になった例はずいぶん多いため、
気になるところです。

この神社の境内はかなり広く、しかもそれなりの要害ぶりなのです。
(戦国期の小土豪の構居たり得るな…と^^;)

ところで、小寺城の城主であったという小寺則治について、
ご存知の方はいらっしゃいませんか?
赤松庶流の小寺氏の系統など当ってはみたのですが見当たらず…、
戦国期の伊川沿いの地は、多くは明石氏の支配下にあったと考えられるのですが、
この小寺氏はさて…?でして。

阿弥陀の住人さん、詳しい書き込みありがとうございます。
勉強になります。

頭高山にあったお城が小寺城ということなんでしょうか?
私はまったく別のお話なんだという解釈で読んでましたけど。

小寺主馬助則治でしょうか
未確認ですが図説三木戦記にその名があるようです。

[1432] こんばんは! 投稿者:KL [近畿] 投稿日:2008/05/12(Mon) 22:09
皆さん、こんばんは!

今日はちょっと時間があったので城ヶ市城、小寺城、太山寺城に行ってきました。

城ヶ市城は書いてた通りシンプルでしたね。

太山寺城は時間の関係で行けなくお寺の前で終わりました(>_<)

小寺城跡の場所が分かりました。やはり場所はお寺から多少ずれてましたね。すぐ近くで城跡は民家でした。

ちょっとブログに書いたので見てみてください。

お寺の方の話だと学園都市の近くに頭高山って山が昔あり、そこに昔の太谷寺があったみたいで、そこに城があったみたいです!城の殿様が戦いで負け、太山寺に仏像を持って逃げ込んだと言う話を聞きました。

今は頭高山の城があった場所は新しい家が建っているという色々興味深い話を聞きました。

お寺の方が忙しく違う日に聞きに来てと言って下さったので、また今度行ってきます。

長々と失礼しました。

http://ameblo.jp/kl-meguri

KLさんこんにちは。

小寺城の場所はお寺の方に聞かれたんですか?
私もふらっと行ってみたいなと思いました。


頭高山にあったとされるお城は何城のことなんでしょうね。
阿弥陀の住人さんが書かれてますが、私もちょっと
気になってます。


あ、それとブログ拝見しましたよ。
竹田城にもいかれてましたね。

私は18日に城仲間十数人で行っていたのですが
ひょっとしたらニアミスしてないかなぁと思いまして。

当日は風が強かったですがいい天気で最高でした。

なのに南千畳の南斜面の藪こぎをしてましたけど(笑)

[1431] 王地段関係の碑や説明板は 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/05/10(Sat) 15:28
こんにちは
本岡さん、しばらくでした。
王地段関係の遺跡では、王地段と船堀については、
林道雪彦・峰山線に案内標識があり遺構も確認できます。
熊部からの山道が林道に出会う辺りです。
他の砦や関の遺構には碑や説明版などは見当たりませんでした。
というか、遺構そのものも南北朝初期のものですから、
「この辺りの筈」と思って見れば、何とか削平地らしい地形・・、
という程度でした(笑)
いずれも、往古の賀野権現の参道だった古代往還「権現道」に沿って造られたらしい防御施設ですから、祠堂跡などの遺構も所々にあるらしく、石積みや削平地を見つけても、どちらのものなのか?でありました(汗)

ところで先日、
小野市の河合城・堀井城・小堀城を、遺構撮影の目的で久しぶりに訪ねました。

そのついでに河合屋敷(河合館)も訪ねたのですが、
本岡さんの「城めぐ」記事を見るとスーパーkawaiになっている!?
私が知っている頃(30年以上昔・・)には、
県道沿いに石積みのある土塁と薬医門が遺構として残り、
秀吉が宿舎にしたという土地の老人の話しを聴いたものでした。

…で、いま見てみると、
くだんのスーパーは既に店じまいで閉鎖されていましたが、
スーパーに隣接する東側一帯に河合館の方形遺構は健在でした。
ただし、石積土塁が残るのは東・北・西の三方で、一部には掘跡も見られます。
薬医門は、その屋敷地内に大切に移設されてあり、県道からも覗けます。

また、河合屋敷は、現在も子孫の河合氏がお住まいのようです。
これは、近くの小堀城跡に城主の子孫の光枝氏(三枝氏)がお住まいなのと、
よく似ており、歴史を感じさせられる土地柄ですね。

え〜と、
「隠し砦の三悪人」は創作のフィクションですから、
“ある地方”とは、おとぎ話の“昔々ある所に・・”と同じ表現と思います。
山名とか秋月とか、実在の戦国大名の名が出てくるため、
実在のモデルがあったかのように受け取られたのでしょうか?
山名氏は山陰・中国筋の、秋月氏は九州の戦国大名でしたから、
この両者の間には、黒澤映画のストーリーのような接点はある筈もなくです。
もっとも山名氏ではなく大友氏なら、秋月氏は大友氏に攻められ一度滅んでいますから、
モデルストーリーにならなくもないかも知れません。
ちなみに、秋月氏は高鍋藩として再興され、江戸期の名君として知られる上杉鷹山の実家であり、明治維新まで大名家として存続しています。

阿弥陀の住人さんこんにちは。
こちらをすっかり後回しとなってしまってました。

おまけにPCがつぶれたり・・(><) まぁそれはおいといて。

王地段の状況がなんとなくイメージできました。
あまり下草が伸びてくると遺構の確認が大変そうですね。

河合屋敷は土塁が現存ということだったので行かねば
と思っていたのですよ。
いい情報ありがとうございました。

週末のぞきにいってこようかなと思います。

最近特に思うのですが、なんかどこかで阿弥陀の住人さんとお会いできそうな気がしてきます(^^

そのときはよろしくお願いいたします。
私は基本小走りでカメラを首からぶらさげてキョロキョロしていると思います(^^;

[1430] お久しぶりです 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/05/09(Fri) 19:38
前から言っていた、GWにお城に行ってきました予定より多くのお城を制覇しました。まず、米子城に行き、松江城に行き、浜田城に行き、萩城に行き、小倉城に行き、門司城に行き、帰りに、今治城によって100名城のスタンプを押して帰ってきました。すごく楽しい思い出になりました。いろいろな情報ありがとうございました。

MASAYUKIさんこんにちは。
ものすごい移動距離になりましたね。
浜田城が含まれているのはMASAYUKIさんのこだわり
ですか?宿をこのへんにとられたからとか・・。

移動距離が長いとGWでは渋滞状況次第ではとんでもないことになってしまいそうですが、大丈夫そうですね。

お疲れ様でした。

[1429] 隠し砦の三悪人 投稿者:山城大好 [東海] 投稿日:2008/05/08(Thu) 23:17
近々リメイクされる『隠し砦の三悪人』で
『戦国時代のある地方、山名家に敗れた秋月家の武将・真壁六郎太は・・・』
とありますが、ある地方とはどこのことですか?

山城大好さん、はじめまして。

隠し砦の三悪人のストーリや設定は全然知りませんでしたので、Webで調べておりました。
やはり現実のものとは違うと思いますので、あてはまる
場所はないんじゃないでしょうか。

でもモデルとなった場所はあったかもしれませんし、
ロケ地となったのがどこかとかいうのも楽しみとして
はいいかもしれませんね。

それでは。

[1428] こんにちは。 投稿者:KL [近畿] 投稿日:2008/05/06(Tue) 14:46
本岡さん、皆さん、こんにちは!

GWに竹田城、出石城。ちょっと前に小寺城に行ってきました。

竹田城は想像以上に素晴らしかったです。雲海は是非見てみたいです。出石城も夜だったんですが上から見る景色は綺麗でした!

有子山城は登山入口まで行きましたが暗くなってきたので行けませんでした。残念です。

小寺城の場所を聞きに行ったのですが、お寺の和尚さんが居なくて現地の方に何軒か聞きましたが分からなかったです。

また今度和尚さんに聞きに行ってきます。


住人さん、初めまして。高畑城(伊川城)の事教えて下さってありがとうございます。また今度行ってきます。

http://ameblo.jp/kl-meguri

KLさんこんばんは。
県内をあちこちいかれてますねぇ。

竹田城いかれたんですね。
あそこは年中オンシーズン(最近は夏場は石垣が
草でよく見えなくなってますが)ですからねぇ。

雲海は朝早いですけどまた挑戦してみてください。

私も今月竹田に行こうかとまだ悩んでいるところです。
どうしようかなぁ。

[1427] HPアドレス変更 投稿者:yoshiisa [北海道] 投稿日:2008/04/30(Wed) 23:12
お世話になります。お城と武家屋敷のHPアドレスを変更しました。こちらに変更お願いします。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~bukeyashiki/

おお、ご無沙汰しております。
URL変更の件了解いたしました。
さきほど変更しておきました。

そういえばGWは三重県に攻め込ませてもらってました。
といっても志摩がほとんどですが海辺の古城を攻める
のに駐車スペースと狭い道路に難儀しました。

今後ともよろしくお願いいたします。

[1426] 富山県高岡城 投稿者:軒丸瓦 [中国] 投稿日:2008/04/27(Sun) 19:56
こんばんは。現在高岡城に残存する本丸〜二の丸の土橋の石垣は後世の積みなおしらしいです・・・。でも縄張り図には石垣が描かれてることから城郭が機能していた時代から石垣は存在していたみたいです。

軒丸瓦さんこんばんは。

高岡城に行かれてるんですか。
たしか刻印があるということだったなぁという記憶
でしたので後世の積み直しと聞いて違和感があります。
そうなんですねぇ。

そういえば改めて高岡城之図を見てみましたが
石垣についてまで書き込まれてなかったです。
残念。

[1425] うううう・・ 投稿者:本岡 [近畿] 投稿日:2008/04/25(Fri) 01:52
皆様掲示板に書き込んでくださり、ありがとうございます。
本来ならば個別にコメントをさしあげるところですが、
今はちょっと余裕がありません。

なんとか今月を乗り切ればかなり楽になれますので、それまで反応が鈍いことをご容赦くださいませ。

m(__)m

http://www.siromegu.com

ようやく復帰しました。

4月はmixiの活動で完全に時間を使ってしまってました(^^;;
疲れきりましたが、楽しい期間でもありました。

さて、5月からはたまってきた攻城記をアップしていきますよ。

[1424] 王地段城塞群 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/04/24(Thu) 00:57
お役にたてたようでしたら何よりです。

さて、私はどちらかと言えば歴史の陰に隠れたマイナーな城跡を訪ねたい傾向が強いのですが、今週の日曜日におそらくは訪城ネットサイトにはまだ未出と思われる城塞群を奥播磨の山中に訪ねてきました。
姫路市の最北端、夢前町の雪彦山に連なる標高500m以上の峰や山腹に点在するこの城塞群は、その主核である「王地段」を守るように「船堀(竪堀)」などの防御施設と「王城谷城」「三方峠構居」「城戸の関」などの砦があります。

では、この城塞群は何かと言えば、後醍醐天皇が隠岐を脱出して播磨まで来た時、
東国の情勢(鎌倉幕府と北条氏)いまだ穏やかならずと、名和長年らに命じて造らせた行在所(仮の皇居)である王地段と、それを守るための周囲の城塞だそうです。

もっとも、新田義貞の武功によって鎌倉が天皇の予想より早く陥落したため、
この城塞群に天皇が籠る必要がなくなり、京都への還御が叶ったわけですが。

本岡さんの城めぐにある夢前町山之内字立船野の“賀屋構居”近くには、
この時に地元の土豪である大江氏が用意した天皇の政所(大江政所)遺跡もあります。

阿弥陀の住人さん、こんにちは。

王地段に行かれましたか。
私も最近地図上にマッピングしていたんですよ。

ところで近隣の城跡や構居跡などきっちりと碑が
ありますが、阿弥陀の住人さんが行かれたところ
はどうでしたか?

迷わずにたどり着けるかな、と思いまして(^^;

[1423] 堀城は十三公園と断定 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/04/23(Wed) 16:31
> 大阪にお住まいの方は、“筋”と言うと道のように思われ
> るかも知れませんが、
> “川筋”とは“川の流れ”そのものを言います。

 やっぱりそーだったのですかー、「筋」は川の事を言っているのですね。大体「水色」で道を書くのはへん、普通は「茶色」でしょうね。
 またまた、貴重な情報有難うございます。

> 幾度も築城・廃城が繰り返されたと言いますから、
> 城の位置・規模・縄張りなどに変化があった可能性はあり
> ますね。

 なるほどー、その可能性は確かに高いと思います。

> と言えば免責では6536坪(21528u)ですから、
> 戦国時代の平城としては、かなりの規模の城だと言えま
> す。

 なるほどー、確かに大きな規模ですね。

> ちなみに現在の十三公園の広さを測定してみると、
> 約25000uですから、ここに堀城があったとすれば、
> 収まる面積ではありで。

 そーだったのですかー、なるほどー。
 ただ、明治18年の地図を細かく見てみると噴水がある地点から西側はすでに川の中に埋没してしまいます。十三公園の半分は無いと思います。

・昭和10年から20年頃 「思い出の十三 イラストマップ」
・明治18年の地図
・東摂城址図誌

 を三つ重ね合わせると堀城の城郭の中心部分は、

・中心部分 十三駐車場
・西側 十三公園
・東側 ローレルコート十三公園(十三本町16,17,18)

 程度ではないかと思われます。中心部分をお城さんマークに入れておきますね。

 あーーーーー、すっきりしましたー。

 現在でも堀城がどのようにあったのかよく解らない部分がありましすが、ただ、少なくても明治時代に言われていた「堀城跡」というのは、「十三公園説」が正しいと断定してもいいかと思います。

・阿弥陀の住人
・摂津衆 ひで
・管理人さん

 いろいろと情報を提供して頂きまして有難うございます。一人ではここまで細かく調べる事はなかったと思います。なんか、ホームページにこのことを記載できるに頑張って作成してみます。

 あっそれと、

> また、私の知る限りで堀城が史料に登場するのは

 という件に関しては、今いろいろと調べている最中なので後日書きますね。

では、では。

http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34.714428913838965&lon=135.48155528929325&sc=1&mode=map&type=scroll

ブレイズマンさん お疲れ様でした。
大変興味深く読ませていただいておりました。

平城、特に都市部や住宅街のようにすっかり消滅
してしまっている場合はその場所を特定するのは
ほんと大変ですね。

阿弥陀の住人さんやひでさんも加わっていただき、
一緒に考えられているのをあとから(汗)読ませて
いただいているとニヤニヤしてしまってました。

ほんと城好き仲間っていいものですねぇ(^-^

[1422] 感動したぁ!! 投稿者:saketyan [近畿] 投稿日:2008/04/23(Wed) 00:12
初めてサイト覗きました。"兵庫丹波の城”に興味があり色々城関係のサイト巡りしています。住んでる直ぐ近くにも古城が有ったなんて…驚きと往時はここが戦場か?なんて思いふけりながら山川を眺めるのが楽しくなりました。
因みに、油井城の直ぐ近くですよ。またの機会にでも訪城してください。楽しみにまた覗きます。

saketyanさんはじめまして。
丹波の山はほとんどが城跡、砦跡等があったんじゃないか
と思えるほど(いい過ぎ?)山城が多いですね。

久しく丹波はいっていませんでしたが暑くなって
きますと虫、下草など城めぐりには難儀するように
なりますので大変です(^^;

以前丹波の山城に6月に入ったときにダニにやられまして
ものすごく痒い思いをしたのを思い出されます。


でもそういわれますとなんとなく行きたくなってきました(^^;
ちょっと地図を見ながら考えてみます。

またよろしくお願いいたします。

[1421] 堀城(摂津中島城)のこと 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/04/22(Tue) 14:11
こんにちは

ブレイズマンさん
『東摂城址図誌』をご覧になって、
当時の堀城(中島城)跡の南が“中津川筋”となっているのでしたら、
「南に中津川の流路がある」という意味です。
大阪にお住まいの方は、“筋”と言うと道のように思われるかも知れませんが、
“川筋”とは“川の流れ”そのものを言います。

それから、“字堤外城屋敷”ということでしたら、
東摂城址図誌が書かれた時期の地理は明治18年の地図と変わりない筈ですから、
中津川に架かる十三橋から続く堤防上の道の外(南側)の城屋敷という字に、
堀城があったというあなたの解釈で正しいと思います。

その三分の一が宅地(堀村の堤防外の集落)と、
その三分の二が耕地というのも明治18年の地図と一致しますね。

ちなみに堀城(中島城)は、この地を代々の領地とした細川典厩家の城でしたが、
幾度も築城・廃城が繰り返されたと言いますから、
城の位置・規模・縄張りなどに変化があった可能性はありますね。

・南北 76間 (約138m)
・東西 86間 (約156m)

と言えば免責では6536坪(21528u)ですから、
戦国時代の平城としては、かなりの規模の城だと言えます。

ちなみに現在の十三公園の広さを測定してみると、
約25000uですから、ここに堀城があったとすれば、
収まる面積ではありで。

また、私の知る限りで堀城が史料に登場するのは、
元亀元年(1570年)に三好三人衆と織田信長の間で闘われた野田・福島の合戦で、
室町幕府15代将軍の足利義昭が、信長の要請によって9月2日に京都から出陣して、
この細川藤賢(幕府奉公衆)が城主であった攝津中島城(堀城)に入城したというものです。
ただし、9月12日には石山本願寺の信長を敵とする挙兵があり、
義昭は城を出て信長と合流しています。

また城主の細川藤賢は信長による義昭追放の後、信長に仕え、
坂本城の守将に任じられています。

堀城が廃城になったのはこの頃か、
遅くても秀吉による天下統一までの間のことと思えます。


[1420] 堀城 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/04/22(Tue) 01:18
> いまとなっては市街地の調査はできないでしょうから、
> 正確な位置の比定は、かなり困難な感じですね。

 いや、まったくその通りです。
 さすがの城素人の僕でも、その程度のことは十分理解できます。
 ただ、地図とか見ながら「どの辺かなー」とか考えるのは結構好きなので、いい加減半分でいろいろ書かされていただいております。

 で、今日 『東摂城址図誌』を実物を見に出かけ、ついでに十三公園にも遊びに行きました。
 まずデジカメで撮影するのはNGでしたが、カラーコピーはとってきました。

・南側 中津川筋

 の方ですが、確かに「筋」と書いてありますが、それが水色で川のようにユラユラという感じで記載されています。ひょっとして昔は「筋」という言い方も、道ということだけではなかったかも知れません。これで見ると川と防波堤に挟まれた部分が堀城のように思えます。
 で、記載されていることは、

・南北 76間 (約138m)
・東西 86間 (約156m)

 とあり台形をとています。その内、

・約2/3 耕地されている(字堤外城屋敷)
・約1/3 宅地化されている

 という記載があります。『東摂城址図誌』は明治初期の絵図で、各所で城が無くなるのを惜しんで記録に残しているといわれていますので、この当時にはすでに廃城になったと思います。

 これらのことを総合的に考えて、

・ローレルコート十三公園
・なんか指紋のような、モコモコしたもの

 部分はまったく違います。その部分はおおよそ40m程度ですので、櫓程度は建設されたかもしれせんが、堀城主郭とはちょっと違うように思いました。

 取り合えずそんな感じです。

では、では。


[1419] はじめまして 投稿者:コロン [近畿] 投稿日:2008/04/21(Mon) 21:35
はじめまして。

お城めぐり、楽しそうですね。お仲間に入れて下さい。三木市在住ですが、地元にもいろいろ沢山あるんですね。三木城趾には市役所がありよく行っています。スタンプラリーぼちぼちやっています。3月は佐賀城と島原城に行って来ました。よろしくお願い致します。

コロンさんはじめまして。
三木市にはいつもお世話になっております(^^;
管理人の本岡です。

三木は市内あちこちに土塁のあとが見れるだけでも
ほかにはない貴重な史跡の宝庫だと思ってます。
よくふらっと三木にいってはあちこち歩いてるんですよ。

ご近所さんということもありますが
これを機によろしくお願いいたします。

[1418] 堀城の正確な位置の比定は・・ 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/04/21(Mon) 09:17
おはようございます

ブレイズマンさん
平城っていうのはよほどの田舎ならともかく、
十三のような都会の市街地では町の中に埋没してしまって、
現在の姿からは往時を偲ぶべくもないのがほとんどの例ですね。

私は堀城の縄張り図などを見ていませんから何とも言えないのですが、
いまひとつ、淀川水系は旧中津川も当然ですが古代から洪水を繰り返し、
その流路は堀城が在った当時と明治時代では変わっている可能性も考えられます。

いまとなっては市街地の調査はできないでしょうから、
正確な位置の比定は、かなり困難な感じですね。


[1417] ローレルコート十三公園 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/04/20(Sun) 21:23
 下にある、

・明治18年の地図

 によると、なんか池のような場所がありますでしょ。

 中津川筋が不規則にU字型に少し曲がっているでしょ。これは城をさけて道が曲がっているかもしれませんねー。

 しかし、

十三公園 → ローレルコート十三公園

 が城跡と言われても味もそっけもないですけどね。

 一応、ローレルコート十三公園周辺の地図をお城さんマークに入れておきます。

では、では。

http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%85%AC%E5%9C%92&jsv=107&sll=34.718705,135.480351&sspn=0.003757,0.007135&ie=UTF8&z=17


[1416] 有難うございます 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/04/20(Sun) 21:01
> そのサイトのサイト内検索(左下にあり)で「ミードの
> 森」と入れて検索して下さい。

 はいはいはい、ありました。
 これも「お城」さんマークに入れておきますね。

> 十三公園は、周囲が田圃だった頃から、
> 周囲より少し小高い森で、江戸期から住んでいた地元の人
> は、そこが堀城(中島城)跡と知っていたようです。

 そーだったのですかー。
 ありますねー、確かに。

・昭和10年から20年頃 「思い出の十三 イラストマップ」

 もしこの絵図が正しいとするならば、十三公園の少し南側にありませんかね。
 で、このサイトにある、

・明治42年の地図

 のちょうど真ん中辺に、なんか指紋のような、モコモコしたものがありますでしょ。これが丘なんかで、城跡ということはないでしょうか?

 もし、これが城跡だとすると、十三公園というよりも、グーグルマップでいうと

・ローレルコート十三公園

 というマンションの方がそれっぽいような感じがしますが、どーなのかなー?
 実は、例の東摂城址図誌に、

・北側 中津川堤防
・南側 中津川筋

 とありました。十三公園ならば南に中津川堤防がないとダメじゃないの思いますが、モコモコモコっとした指紋のようなところならば、南に中津川筋がありますよね。

 ひょっとして、十三公園ではなく、ローレルコート十三公園、少し南側なのかなー。

 うん、どー思われます?

では、では。

http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-93.html


[1415] ミードの森で・・ 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/04/20(Sun) 08:05
おはようございます

ブレイズマンさん
そのサイトのサイト内検索(左下にあり)で「ミードの森」と入れて検索して下さい。
そうすると昭和10〜20年代の十三公園周辺のイラストマップが出ます。
そこのニードの森・十三公園の横に吹きだし風の囲み文字で、
『史跡 堀城址』と記されています。
(マップの上でクリックすると字が拡大されて見やすくなります)

十三公園は、周囲が田圃だった頃から、
周囲より少し小高い森で、江戸期から住んでいた地元の人は、
そこが堀城(中島城)跡と知っていたようです。
戦後の町の変遷の激しさの中で昔からの住人も少なくなり、
堀城の伝承や位置を知る人は、更に少なくなったんでしょうね。


[1414] うっそー 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/04/20(Sun) 00:18
> 現在の新淀川ではなく、いまは無い中津川を指していま
> す。
> この河川の付替え工事によって、
> それまで中津川の東岸にあった塚本は、新淀川の西岸にな
> っています。

 げーーーー、そーなんですか。

> 同サイト内には「消えた中津川 3 十三篇」に
> 十三付近の明治18年・明治43年の古地図と現在位置の
> 対比があり、
> 旧堀村の位置が、現在の十三公園付近に記されています。

 はいはいはい、ありましたー。お城マークに入れておきますね。

 なるほどーーー、これはびっくりです。

 確か、堀城の東側に川らしきものが流れていました。これは中津川のことだったんですね。
 このGoogleマップの方でいいますと、

・十三公園の一部
・淀川通
・北野高校

 とかは川の中にはいるのでしょうか。
 明治40年には修徳館の斜め前ぐらいなのでしょうかね。修徳館跡に北野高校が建設されたのかもしれませんね。

 阿弥陀の住人さん、またまた貴重な情報有難うございます。実は堀城はなぞの城だったので、どの辺かよく解らなかったのですね。

1.淀川区役所説
大阪市淀川区十三元今里1丁目、十三公園

2.日本城郭大系説
大阪市淀川区木川西 (恐らく木川公園周辺)

3.大阪市の文化財説
大阪市淀川区十三本町2 (恐らく武田薬品工業大阪工場周辺)

4.戦国三好一族
大阪市東淀川区塚本町

 といろいろな説があって。大分すっきりしてきました。

掘村 → 堀城

 は関係あると思われますので、淀川区役所説が可能性としてはもっとも高くなってきましたね。

> また、同サイト内に戦前(昭和10〜20年)の十三付近
> のイラストマップがあり、
> このマップの十三公園傍には「史跡堀城跡」と記されてい
> ます。

 え、それってどこにあります?

では、では。

http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-61.html


[1413] 堀城(中島城)の位置比定について 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/04/19(Sat) 20:15
現在の新淀川は明治18年の大洪水の後、中津川を埋め立て、
明治41年頃までかけて開削されたものです。
従って、戦国期に川の畔に堀城があった頃の川とは、
現在の新淀川ではなく、いまは無い中津川を指しています。
この河川の付替え工事によって、
それまで中津川の東岸にあった塚本は、新淀川の西岸になっています。

このことを記したネットサイトに「十三のいま昔を歩こう」があります。
この掲示板にはURLの記載が禁止されているようですから、
googleででも「」内の字句を入れて検索してごらん下さい。

同サイト内には「消えた中津川 3 十三篇」に
十三付近の明治18年・明治43年の古地図と現在位置の対比があり、
旧堀村の位置が、現在の十三公園付近に記されています。

また、同サイト内に戦前(昭和10〜20年)の十三付近のイラストマップがあり、
このマップの十三公園傍には「史跡堀城跡」と記されています。


[1411] 東摂城址図誌 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/04/19(Sat) 00:20
> 『東摂城址図誌』を見に行かれるんですね。

 はい、そーなんですよ。

> 私も何回か閲覧しましたが、色合いもきれいで良く書かれ
> ているなと感心します。

 えーーー、やっぱり城好きの人は情報量豊富というか、上には上の人か沢山おられますね。
 何回も閲覧されているのですかー、すごいですね。

> ただ絵図からは場所とかが比定しにくいですがとても貴重
> な資料だと思います。

 ただ、堀城跡については、横に川が流れていましたね。多分淀川の事ではないでしょうか。

> なにか新しい発見がありましたらお教え頂きたいです。

 了解です。

 一応、本はデジカメに撮影が可能ならば撮っておきたいと思っています。

では、では。


[1410] 東摂城址図誌 投稿者:摂津衆 ひで [近畿] 投稿日:2008/04/18(Fri) 23:33
こんばんは。

ブレイズマン様、『東摂城址図誌』を見に行かれるんですね。
私も何回か閲覧しましたが、色合いもきれいで良く書かれているなと感心します。
ただ絵図からは場所とかが比定しにくいですがとても貴重な資料だと思います。
ただ私は古文書が読めないので。
それと豊島郡が抜けているのが残念です。
堀城のことは今行き詰った状態です。
なにか新しい発見がありましたらお教え頂きたいです。

『東摂城址図誌』に国分寺塁というのが出てきますが、この城砦のことをご存知の方、ぜひ教えて頂きたいです。
三田藩神崎川砲台の方もお願いします。

ひでさんこんにちは。

三田藩領に砲台があったんですか?
神崎川ということならなんとなく尼崎藩かなぁと
思ってたんですが。

『東摂城址図誌』に興味がでてきました。(^^;

[1410] 東摂城址図誌 投稿者:摂津衆 ひで [近畿] 投稿日:2008/04/18(Fri) 23:33
こんばんは。

ブレイズマン様、『東摂城址図誌』を見に行かれるんですね。
私も何回か閲覧しましたが、色合いもきれいで良く書かれているなと感心します。
ただ絵図からは場所とかが比定しにくいですがとても貴重な資料だと思います。
ただ私は古文書が読めないので。
それと豊島郡が抜けているのが残念です。
堀城のことは今行き詰った状態です。
なにか新しい発見がありましたらお教え頂きたいです。

『東摂城址図誌』に国分寺塁というのが出てきますが、この城砦のことをご存知の方、ぜひ教えて頂きたいです。
三田藩神崎川砲台の方もお願いします。

ひでさんこんにちは。

三田藩領に砲台があったんですか?
神崎川ということならなんとなく尼崎藩かなぁと
思ってたんですが。

『東摂城址図誌』に興味がでてきました。(^^;

[1409] はじめまして 投稿者:丸山明 [中国] 投稿日:2008/04/18(Fri) 21:11
こんばんは。初めてお便りします。岡山でしろめぐしています。早速ですが、有年の八幡山に興味があります。いろいろ楽しみたいと、思います。有難うございました。

丸山さんはじめまして。
管理人の本岡と申します。

有年の八幡山に何かあるんですか?
ふらっと駆け上がった記憶はあるんですが、たいして
思い入れがありませんでしたので(^^;;

岡山県はお城の場所はわかってもあまり歴史やほかの
城との関連がわかっておりませんので、いろいろ
教えてください。

今後ともよろしくお願いいたします。

[1408] えーーーーーまじすっかー 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/04/17(Thu) 23:07
> その堀村は、現在の十三公園から中津川の西岸辺り一帯で
> あったようです。

 えーーーーーまじすっかー。
 いやー、阿弥陀の住人さん、貴重な情報有難うございます。

1.淀川区役所説
大阪市淀川区十三元今里1丁目、十三公園

2.日本城郭大系説
大阪市淀川区木川西 (恐らく木川公園周辺)

3.大阪市の文化財説
大阪市淀川区十三本町2 (恐らく武田薬品工業大阪工場周辺)

4.戦国三好一族
大阪市東淀川区塚本町

 といろいろ説がありましたが、

1.淀川区役所説

 の可能性が高くなりました。実は「東摂城址図」という絵図は現在、大阪の図書館に所蔵されているそうで、後日実物を閲覧できることになりました。

 拝見しましたら、またこちらに報告させていただきますね。
 そーかー、やっぱり十三公園というのは可能性が高そうですね。

では、では。


[1407] 堀村は 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/04/17(Thu) 07:18
おはようございます。

堀村は、掘村→神津村→神津町→大阪市と合併・変遷しています。
その堀村は、現在の十三公園から中津川の西岸辺り一帯であったようです。
神津村の時代に神津村字堀となり、渡し船が中津との間を往復していたとか。


[1406] 堀城 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/04/16(Wed) 23:34
 堀城のその後について、追加情報がわかりました。

「東摂城址図」

 という絵図があるそうなのですが、これはおそらく明治初めから中ごろに作成された絵図で、

・旧西成郡堀村

 現在でいうと、

・大阪市淀川区

 にあたると書いていますね。この「掘村」がどの辺になるの、解る方おられましたら教えてください。

では、では。

すっかり終わってしまったあとで反応して申し訳ありません・・・

いつもながらブレイズマンさんの熱意ある探究心には
いい刺激をいただいております。

調べていった結果として何か結論が出ることはもちろんなのですが
こうやって調べている間も楽しいんですよねぇ。

[1405] 一乗谷の山上は・・・・・・・・ 投稿者:野間 [近畿] 投稿日:2008/04/11(Fri) 22:33
本岡さん、こんばんわ。久しぶりに投稿します。
一昨日、一乗谷の山上の城に行ってきました。
(麓の館跡は行ったことがありましたので)
本岡さんは山上の城跡に行ったことがあるかも・・・・?

登山道は3本ありますが、2本(馬出コース、英林塚コース)は現在通行止めになっています。3年くらい前の集中豪雨で斜面が崩れてまだ復旧できていません。現在、砂防ダムの工事中です。一乗谷川に架かっていたJR越美北線の橋も流されてしまいましたが、こちらは復旧しています。

ということで今回、唯一の登山道になっている阿波賀コースを登りました。麓から見ると長い尾根に鉄塔が並んでいるのが見えるコースです。このコースは楠正成の上赤坂城の登山道のような道を登っていきます。落ち葉を踏みしめながら、堀底道のような登山道を15分ほど登りますと鉄塔の下に出ますがここからの眺めはまずまずで、結構登ってきたことがわかります。さらに登って合計約1時間で一の丸と千畳敷の分岐点に着きます。一の丸、二の丸、三の丸とわかるように表示されていますが、案内板はボロボロです。麓の館跡に比べるとほとんど整備されていません。各曲輪も歩きにくく、せっかく山上まで来たのに残念でした。遊歩道があるだけにもったいないですね。
分岐点まで戻り、千畳敷とその先の宿直(とのい)にも行きましたが、こちらの方が一目で曲輪だとわかりやすくなっていますし、眺望も一番いい所と思われます。この山城跡は まだ行ったことがない方はあまり期待しないほうがいいですよ。それと落ち葉の下は粘土質が多かったので滑りやすくなっています。スニーカーより登山靴の方が雨が降った翌日や翌々日は無難でしょう。
 

野間さんご無沙汰しております。

一乗谷の山上はまだいってないんですよ。
以前は危険だと聞いていましたが今はそうでもないんでしょうか。

もっとも以前訪れた時はそれほどお城に足をつっこんでなかっただけかもしれません(^^;

次回福井にいくときは必ず攻め込もうと考えております。情報ありがとうございました。

[1404] 姫路藩の瓦コレクション。 投稿者:軒丸瓦 [中国] 投稿日:2008/04/11(Fri) 20:23
本岡さんこんばんは!
いえいえ利神城の軒丸瓦は持ってますよ!あそこもいい城郭ですよね!再訪してみたい城郭です。私は織豊系の城郭しか見ないのですが今後は東海、北陸が活動の舞台になりそうです。姫路藩の支城の瓦の完全コレクションを完成させたかったんですが本で調べると、淡路岩屋城は立ち入り禁止になってるとか・・・。残念!鶏籠山城、利神城、三木城、高砂城、船上城、由良城は採取できてます^^。

軒丸瓦さんこんにちは。
淡路岩屋城は立ち入り禁止なんですか?
草ぼうぼうで入れないので同じようなもんですが・・いつの間に・・。

瓦コレクションで本ができそうですね。
なんかうらやましくなってきました。

北陸、東海でのご活躍を楽しみにしております。

[1403] 伊川城について 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/04/09(Wed) 16:47
こんにちは

この掲示板のログを見ていましたら、
伊川城の位置がわからないとありましたので。

伊川城とは、高畑城の別名ではないでしょうか?
同じ城の別名と記しているネットサイトもあり、
また、伊川城の所在地は西区伊川谷町前開字高畑山となっています。

歴史的に見ても、伊川荘の代官職として伊川城にあってこの地を支配した明石氏は高畑殿と呼ばれたとありますから。

本岡さんの城めぐ記事にもある通り、伊川城(高畑城)は「太陽と緑の道」なるハイキングコースの途中の高畑山にあり、説明板が設置されていますね。
ただし、この説明板には高畑城とのみ記され伊川城の別名は記されていません。
(ちと不親切…)

また、伊川城が資料に見えるのは観応の擾乱の時(1351年9月12日)、
赤松則祐が播磨伊川城から摂津に入り、須磨などに転戦する旨の「後藤文書」が初見のようです。

三木城の戦いの時は、
別所方に組した衣笠氏の端谷城の対城(向かい城)として、
秀吉に組した明石則実が入ったとありますが、
端谷城と高畑城の間は道程にして3kmばかり、
なるほどという感じです。

枝吉城・下津橋城・高畑城(伊川城)を押さえた明石氏を味方にしたことは、秀吉の三木城包囲戦を容易にし、
別所方にとっては痛手であったでしょうね。

阿弥陀の住人様こんにちは。

伊川城=高畑城ですか!
なるほど・・・。

そういう考え方もありますねぇ。
しかし今の高畑城はもっと木を切ってくれてたら
見晴らしがいいんでしょうね。


[1402] 深井城の推定地 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/04/08(Tue) 03:26
あっそーそー、一応推定地の地図をお城さんマークに入れておきます。

ここから西村砦と東村砦から細川高国軍が攻めてきたわけですね。車のカーナビ距離でだいたい3.4km程度でした。

では、では。

http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34.53089576994414&lon=135.4902591879458&sc=1&mode=map&type=scroll


[1401] 深井城行ってきました 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/04/08(Tue) 03:21
管理人さん、ご苦労様です。

さてさて、瓦林氏関連で堺の「深井城」に行ってきました。

場所がよく解らなかったので堺市博物館で情報収集したところ、観音山古墳跡が可能性としてはもっとも高いのだそうです。

で、早速行ってみましたら、現在は家具、家、農地になっていました。遺構等はまったく残ってませでしたが、少し高い台地にはなっていましたね。

あ、そーそー、それと城めぐに掲載されていない城をまた発見しましたよ。それは、川西市にある、

「山下城」

です。今度行ってきます。

では、では。

ブレイズマンさんこんにちは。
深井城といえば城址碑が見やすくなったと聞いています。
それでもフェンス越しになるみたいですが。

おっしゃってるのはそことは違う場所なんでしょうか?堺市博物館のお話では場所がよくわかってないという感じですねぇ。

山下城だけじゃなくあの辺は全然いってないので
またご紹介くださいませ。

ではでは。

[1400] サムライ! 投稿者:竹原 [近畿] 投稿日:2008/04/07(Mon) 22:23
日本のお城は世界に誇れる遺産、日本のプライド!!!

竹原さん、書き込みありがとうございます。
管理人の本岡と申します。

かなりのお城好きな方なんですね。
お城はいいですね。外国人の方ともよく会います。
やっぱり惹かれるものがあるんでしょうかねぇ。

今後ともよろしくお願いいたします。

[1399] 祖先は侍 投稿者:山脇 猛 [近畿] 投稿日:2008/04/07(Mon) 16:49
出来れば、お城めぐりサークルに参加したいと、思っております、行事予定等判ればお知らせ下さい。

山脇様はじめまして。
弊サイトへようこそ。

管理人の本岡と申します。

ここではめったに一緒にお城にいこうという機会が
ないんですよ。TOPでご紹介しておりますmixiの
コミュニティですと頻繁に活動できているのですが。

また山脇さんのお好きなお城とか、最近行かれたお城
についてお聞かせください。

今後ともよろしくお願いいたします。

[1398] 反応が鈍くてすいません 投稿者:本岡 [近畿] 投稿日:2008/04/07(Mon) 00:03
皆様、反応が遅くなってしまい申し訳ありません。

なかなか時間がなくて書き込みができていませんが
少しずつですが、反応させていただきますね。

この5日、6日はいい天気でしたね!
皆さんいろんなお城に行かれたんじゃないでしょうか。

私もいろんなついでがてら城をからめてました。(^^;

http://www.siromegu.com


[1397] 高砂市の城跡について 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/04/06(Sun) 21:39
こんばんは

YUKIさん

高砂市には、高砂城と小松原城の他には、
北脇城、中筋城(構居)、荒井城(構居)、大日山構居、阿弥陀構居、魚崎構居と、
8の城跡があります。

ご存知かも知れませんが、構居(あるいは構え)と呼ばれるのは、
土豪クラスの武士が、その居館の周囲に堀を廻らせ土塁を築き、
建築物としては物見の櫓を造るなど、
敵の襲撃に対する防備を固めた小規模な城塞のことを言います。
城の規模が比較的大きく構居は比較的小さいくらいの差ですが、
その境はあいまいで城と呼ばれたり構居と呼ばれたり、
資料によって異なる表現が見られるものもあります。

また、詰めの城と呼ばれ、
平時の居館(根小屋)は山麓の平地や丘などにあり、
山の上の城は、もっぱら敵に攻められた時の籠城用という城も少なくありませんが、
構居は元々が武士の居館を防御施設で固めたものですから、
詰めの城という用途機能はもちません。

余談が長くなりましたが、
高砂市には、城跡碑や説明板のある城跡は、高砂城と小松原城の他はありません。
構居には、事前の資料調査などで、その位置は特定できても、
素人目には縄張りや遺構を見つけ出すのが困難なものも少なくありません。
構居の多くが平地にあったため、後世に堀や土塁などの遺構が破壊されてしまっていたり、
集落の人家の中に埋没してしまったりしています。

お隣の加古川市は、城めぐファンにとって親切と言える市で、
多くの城跡や構居跡には、市の手による標柱と説明板が整備されているのですが、
高砂市では、そのようなサービスは見当たらないようです。

久々に浮上してこれました。
超遅な反応ですいません。

確かに加古川市はかなり助かりました。
私が最初にめぐっていたころはすべて足で稼いで
いましたので、なんとなくここら辺かなという
勘を働かせるのも楽しいものでした。

ただ野村城のように場所が違うのもありますし、
碑がなくなってしまっているのもあります。
私有地だとややこしい問題もあるんでしょうね。


[1396] 今日は城の日 投稿者:揚羽 [近畿] 投稿日:2008/04/06(Sun) 07:19
今日は4月6日で城の日ですね!
テレビでも朝から所さんの番組で城特集をやってますね〜
朝から天気もいいし、こんな番組見てたらウズウズしてきました(^^;)
竹田城祭りにでも行ってこようかな〜
ではでは。

揚羽さん、こんにちは。
「しろの日」はいかがお過ごしでしたでしょうか。

すっかり疲れきってましたが、私もふらっと近所の
お城にいってました。
しごの日wは姫路城脇を車で通っていたのですが、
ものすごい渋滞でした。

おかげで車中からも十分お花見ができましたよ。

竹田って武者行列がでるんでしたっけね。
同じ日にあちこちでイベントをやらず日をずらしてほしいものですね。悩ましいものですよ。

[1395] 阿弥陀の住人さん ありがとうございます。 投稿者:YUKI [近畿] 投稿日:2008/04/05(Sat) 11:25
わかりやすい説明だったので素人の域を出れない自分にもすごく理解できました。本当にありがとうございます。ここ一週間くらいのもやもやがとれた気分です。
阿弥陀の住人さんはやっぱり名前のとおり高砂の方なのでしょうか?自分は碑や現地案内板のある城跡メインで廻っているんですが高砂市内の城跡に関してそういったところは高砂城・小松原城以外にはないのでしょうか?あれば是非行こうと思いますので教えてください。ちなみに自分は神戸に住んでまして兵庫県を中心に廻っております。

http://homepage3.nifty.com/oshironiikou/

YUKIさん
ほんと阿弥陀さまのおかげでしたね。
これがほんとの他力本願か(失礼!)。

高砂には阿弥陀の住人さんが上であげられた以外だと、幕末の台場もありましたよ。
ご興味があればまた弊サイト内をご覧ください。


[1394] 奥津城とは神道式の墓のことです 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/04/04(Fri) 23:36
奥津城(おくつき)とは、上代(かみよ)の墓のことですが、現代では神道式の墓のことを指して言います。
神道式の墓石に刻まれる文字でもあり、奥都城、奥城とも書かれます。
大本教関係の墓地ってことでしたら、当然神道式ですから、墓地のことを指して奥津城と呼んでいるのだと思います。

「奥(おく)」とは、奥深い意の「奥」や「置く」を意味するといわれ「城(き)」は、上代の「城」の用例では棚・壁などで四辺を取り囲んだ一郭を言い、「柩(ひつぎ)」の意味もあると言われています。
意味としては、「奥深い所にあって外部から遮られた一郭」であり、また「柩を置く場所」の意味にもなります。

ちなみに神道式の墓には、焼香をしませんから香炉がありません。
その替わりに玉串を奉げる為の八足台があります。
墓石の形は、細長い角柱型で、頂上部は四角錐になっています。
この形は三種の神器の一つ天叢雲剣を表しているそうです。
墓石の文字は「○○家之奥津城」のように刻まれます。
神道には戒名がありませんから、姓名の下に、之霊・命・命霊・霊位などを付けます。
ちなみに、旧日本軍の軍人の墓は、神道墓で建てられているものがほとんどです。

阿弥陀の住人さん、さすがですね。
ありがとうございます。

漢字だけ見たらびっくりしますよねぇ。
って私も以前そういうときがあったからなんですけど(^^;

いやぁ・・非常にわかりやすい説明ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。

[1393] 教えてください 投稿者:YUKI [近畿] 投稿日:2008/04/04(Fri) 13:29
本岡さん、お久しぶりです。キャッスルトラベラーのYUKIです。先日、福知山から綾部方面を攻めたときの事なのですが、綾部城前の県道709号線を南へ下って行くと川沿いに「ひまわり共同保育園」というのがあり、そこよりさらに数十m行くと「天王平奥津城登り口」という立派な碑が建っているんです。そこを車で上っていくと城跡っぽい感じになってはいるのですが、一面、墓苑で社務所もあるのです。帰りはそのまま道なりに下って行く事が出来、どうやら大本教関係?の墓苑のような気がしました。
「県別マップル京都」にもちゃんと「天王平奥津城」と記載されていたので行ってみたのですが、家に帰って調べてもそれらしい資料がぜんぜん見つからないんです。これははたして城跡としてカウントしてもいいのでしょうか?それとも墓苑の事を「城」という解釈でかんがえるべきなのでしょうか?どう見ても城跡っぽかったのですが・・・(社務所の方に聞くにも聞けずで・・・)
あと、綾部藩主九鬼家の廟所 隆興寺(綾部陣屋案内板西)にも行ったのですが、そこにも「奥津城」と碑に記載されているんです。 もう訳がわからずパニックしそうなので、本岡さん及びお城に詳しい方、是非、教えてください。
追伸 「熱中夜話」大変面白かったです。遅くなりましたが・・・。

http://homepage3.nifty.com/oshironiikou/

YUKIさんご無沙汰しております。
そして大変遅い反応すいません・・・。

奥津城については私も悩んだことがありましたよ(^^;
私の場合はある本の芦屋市のお城一覧のページに奥津城というのがあって、「えっお城扱いしてるの?」と
混乱させられたことがあったんです。

詳しい説明はすでに心優しい阿弥陀の住人さんがして
くださったので私は安心して愚痴を書かせていただきました(^^

熱中夜話、お恥ずかしい・・。
全然事前告知しませんでしたが意外と皆さん見ておられたんですね。
先日は初めて地上波での放送でしたね。
知ってれば録画したのに・・。

[1392] 尾張大野城、大草城 投稿者:とも [東海] 投稿日:2008/04/03(Thu) 19:34
私の居住する愛知県常滑市には大野城という城があります。戦国時代のころ築かれた城ですが、当時の堀の跡などが残っています。
またそのこら3キロメートルほど離れた所に大草城と言う城跡があります。両方ともそれほど大きくありませんが、堀や土塁の保存状態は極めてよく一見の価値があります。
こちらの方に来る時は是非お立ち寄り下さい。

ともさん、はじめまして。
尾張の情報ありがとうございます。

大草城は存じ上げておりますよ。
機会があれば行ってみようと思ってましたが、大野城
もお奨めなんですね。

愛知は仕事があれば週末からめて攻め込むんですけど。うう・・。

[1391] 霧島市周辺の城跡 投稿者:DENTA [九州] 投稿日:2008/04/03(Thu) 01:56
タケタクさん、妻山城に関するお返事ありがとうございます。須古小学校前の看板を見て行っただけだったのでよくわかってませんでした。あとHPものぞかせていただきました。知らないことが多く、驚きです。
今度の土曜日に宮崎・鹿児島県境の高千穂峰に登りに行くのですが、日曜に城めぐしたいと思ってます(天気が心配ですが…)。霧島市周辺のオススメ城跡などございましたらお教え願いたいです。m(_  _)m

DENTAさん、引き続いて九州のお城情報
お待ちしておりますよ(^^;

すっかり反応が遅れてしまいましたのでお調べしませんが(というか行ったことないので知らないのもありますが)、どこか行かれたんでしょうね。

桜も見頃を迎えていたんじゃないでしょうか。

写真で拝見できないのがとっても残念です。

[1390] 志方城の遺構について 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/04/01(Tue) 11:13
こんにちは
志方天神山城のことを書いたついでに志方城(市易城)の遺構について、
ちょこっと書いてみたいと思います。

志方城の本丸が現在の観音寺であることは、
『城めぐ』で本岡さんが書いておられる通りです。
たしかに同寺境内を訪れても、城跡の遺構と思えるものは、
見当たりません。
検索した範囲のネットサイトでも遺構がないと…。

しかし、志方城の縄張り図を頭に入れて城跡を見ると、
現在の観音寺が縄張り図通りに本丸に位置し、
境内が丘城として周囲より一段高い2〜3mの切岸に囲まれていること、
そして、二の丸だった現在の志方小学校との境(墓地北側)は、
縄張り図では本丸の櫓台跡と思われる高土台が見られ、
切岸は竹薮に覆われていますが、下を覗くと堀跡と思える遺構が残っています。
また、現在の皿池(同名信号交差点の西の池)は、西郭を囲んだ水濠の遺構です。
(縄張り図を見てはじめてそれと知られることですが…)

それから、志方城の丘城跡としての雰囲気を味わうには、
城跡の東側の田圃から見ると、志方小学校側の切岸や堀跡の遺構を含めて、
感じられるものが多いかと思います。
実は、志方小学校の東北側には約100mに及ぶ高さ2m強の、
野面積そのものの立派な大石垣があります。
石垣の下はご丁寧に武者走りや堀跡遺構と見られなくもない水路まで…。
縄張り図からは二の丸の東北端に当る位置なのですが、
こんな遺構があるとは聞いたことがありませんから、
後世のものかと思うものの、それにしては今風の石垣じゃないし、
英賀城のような復元遺構とも思えず、何とも不思議な城跡の雰囲気十分のシロモノです。
(この石垣の上は宅地造成中で、やがて今風の住宅が建ち並ぶことになりそうです)

最後に、志方城の唯一の建物遺構とされるものが、
法華山一乗寺の塔中寺院である隣聖院にあります。
最近、天台宗のサイトを見ていて偶然見つけたのですが、
同寺の山門は志方城の取手門を移したものだそうです。

阿弥陀の住人さん、いつも貴重な情報をありがとうございます。

確かに墓地の一番高所と、そこと小学校との境目は
城跡を感じさせてくれますね。
また、私もお寺の東側を歩いてみましたがあのあたり(空堀だったんでしたっけね)もお寺を見上げながらぐるりと回っていると確かに言われていることがよくわかります。

でも小学校の裏手の石垣と、移築門?は知りませんでした。
特に志方城の取手門はいつごろ移されたんでしょうか。
興味深いお話ありがとうございました。

[1389] 志方天神山城について 投稿者:阿弥陀の住人 [近畿] 投稿日:2008/03/31(Mon) 10:26
こんにちは
昨日の日曜日、播磨地方は花冷えの雨、
訪城もままならず、家で訪城写真の整理など(笑)

本岡さん、
ところで、「城めぐ」で志方天神山城の記事を見ていて、
少し気になったことがあるものですから書いてみます。
すでにご存知かとも思うのですが…。

この城の歴史は、永徳年間(1380年代前半)に赤松円心の四男で赤松一門の中では唯一南朝方について戦い抜き、播州清水寺で一族郎党ともに自害して果てた弾正少弼氏則(氏範)によって築かれたと伝わります。
氏則ははじめ、古代寺院跡を利用して中道子山(志方の城山)に城を築いて拠点としたが、
まもなくこの愛宕山に城を築いて領地支配の拠点を移したと。

中道子山上は、些か比高差があり過ぎて領地支配の政所とするには不都合であったのかも知れません。

愛宕山天神社の社殿左手に階段があり、
登り切った中腹に氏範の供養塔が建っています。

氏範死後のこの城は、赤松宗家から氏範との戦いの恩賞として、
櫛橋伊範に与えられたと伝わっています。
しかし、この城は水の手の便が悪いという理由から、
櫛橋氏は南方の平地に志方城(観音寺城)を築いて本拠とし、
天神山城は支城となったと。

嘉吉の変では、櫛橋氏は城山城に籠り、この城も志方城とともに落城し、
その後しばらくは廃城になっていたと。
赤松政則によって赤松氏が播磨守護職に復帰した時、多くの赤松被官と同じく、
櫛橋氏も志方城主に帰り咲きました。
ただし、天神山城が再び歴史に現れるのは、天正年間の羽柴秀吉による志方攻めの時です。
この時、櫛橋別家の櫛橋秀尚が、この城を修復して籠り、名を赤羽城と変えて戦ったが、
落城したと。

天神山城は、本岡さんの城めぐ記事にある通り、山麓部の居館跡と思われる遺構の他、
山頂一帯に削平地・切岸・土塁・土橋・堀切・竪堀・石垣など戦国期に修復されたらしい山城の遺構が残っています。
中でも西郭の大手虎口らしい残存石垣と馬出し可能な大手道(左・右の直角の切岸・土塁・長い土橋)はこの城の見所かなと私的には思っています。
(現在は、天神社から氏範供養塔を経て主郭跡に至る登山道があります。)

阿弥陀の住人さん、こんにちは。

加古川の天神山城も再訪したい城の一つでした。
時間がとれましたので登ってみましたが、驚きでした。
あんなに遺構が残ってたんですね。
(というか昔はそれが見えてなかったのもありますが・・汗)

びっくりしたんで来週もう一度行ってじっくり見てこようと思ってます。
でも、あの辺工事していて入りにくかったです(^^;

西郭の石垣・・・確認してきます。
ありがとうございました。

[1388] こんにちは 投稿者:揚羽 [近畿] 投稿日:2008/03/30(Sun) 16:58
本岡さん、こんにちは。
先日、家族で鳥取方面に行ったので城めぐもしてきました。
鳥取は何度か城攻めに来たのですが、今回は子供も一緒だったので富長城跡、尾高城跡、境台場跡のみです。
お土産はもちろん、お菓子の壽城で買いましたよ(笑)
それにしても、鳥取はガソリンが高かったな〜
ではでは。

揚羽さん、こんにちは。

家族サービスのついでにお城攻め、効率よくっていいじゃないですか。
寿城はもう定番ですよね。

私は尾高城は再訪したいお城の一つです。
昔見えていた(はずの)ものが、改めて今見ると
全然違ってみえてくるんだなとわかって、かなり
いろいろと焦って更新しております。
なんかきりないんですけどね(^_^;

[1387] 島根県山吹城に行きました。 投稿者:軒丸瓦 [中国] 投稿日:2008/03/30(Sun) 09:39
こんにちは。山吹城に再調査に行きました。横矢掛かりのある虎口や段状の曲輪群、礎石が今は確認できます。もう少しすると草ははびこり遺構の確認はおろか歩くのも大変です。石垣も本丸下の虎口に低いですが残っています。瓦はあまりなく織豊期の他の城郭に例があるように全部瓦葺でない城郭だったと私は考えました。もしこれからこの石見銀山遺跡の山吹城に行かれるなら世界遺産の関係で観光客が多いので事故に注意されてください。あと暖かくなるとマムシがでるので肌寒い時期の登城をおすすめします。

軒丸瓦さんこんにちは。

精力的に遠征されてますね。
石見銀山はまだ行ったことありませんので山吹城も
チェックしておきます。

そういえば、先日利神城に上ってきました。
あそこ瓦の量がすごいですね。
探せば軒丸瓦さんが喜ばれるようなものはありそうなんでしょうかねぇ。

でも危険な状態が進んでいるのでお奨めしにくいんですけどね。

[1386] 妻山神社について。 投稿者:タケタク [九州] 投稿日:2008/03/30(Sun) 00:07
DENTAさんも 小島城に行かれたのですか。ワタクシもどこからか登れないか探したのですが・・・無理でした。来年本格調査が行われると言う話ですので・・期待してます。ところで妻山神社は・・参道や山門を過ぎて神殿までは行ったのですが・・その先はワタクシも行ってません。城址という案内は、道路側の石に彫ってあるだけで、他には探せませんでした。またいつか出かけたおり・・調べてみますね。

http://taxitake.exblog.jp/

タケタクさんこんにちは。

うーん、地元の方もご存じない謎のお城なんですね。
よかったら何かわかりましたら教えてください。


[1385] こんばんは 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/03/29(Sat) 19:38
今日、城跡と見られる遺跡に行ってきました。名前は覚えていません。遊びに行く途中に見かけました。今度また確認してきます。

MASAYUKIさんこんにちは。

思い出されたらまた教えてください。
何か城跡を感じさせる遺構とか雰囲気はありましたか?

ふらっと出かけたくなる季節、なにもない城跡でも
いいものです。

[1384] 久しぶりにおじゃまします 投稿者:DENTA [九州] 投稿日:2008/03/27(Thu) 02:15
久しぶりにのぞいたら、肥前国の話がでていたのでコメントします。
今年の1月に須古城周辺をまわったのですが、小島城前で畑作業をしていたおばあちゃんに「うちの裏から城跡に入ってもいいよ」と言われ、藪の中に入ったのですが、完全に藪だったので散策できる状態じゃありませんでした。
その後、妻山神社に行き石鳥居を見ると『栗岡豊前城』と書いてあったので、石鳥居の奥が妻山城跡なのでしょうか?
個人の土地のように見えたので奥まで入らなかったのですが、タケタクさんがご存知でしたら教えてください。
妻山神社から犬山城展望台にかけての道からは、須古城や杵島城・小島城がセットできれいに見ることができて良いですね。

DENTAさんこんにちは

妻山神社にいかれましたか。
私も横を通ったときに鳥居そばの城址碑で初めて
知った城跡でした。

よくわからない城ですが、随分と碑は立派でしたね。
なんと鳥居にもかかれてたんですねぇ。

[1383] 須古城についての追加 投稿者:タケタク [九州] 投稿日:2008/03/24(Mon) 21:55
先に送信した時・・不十分さがありましたので追加します。須古城址に行くには、須古小学校の横に道があります。それを進めばコミュニティセンターがあり、駐車場完備です。そこには竜造寺家の庭園と山頂に登れる道があります。藪と竹に覆われた部分が、今回一部伐採され、石垣や井戸などが発掘されました。城址だけではなく、周辺は武家屋敷もあったと想像されています。支城として・・小島城と杵島城があり・・今から調査でその隆信の居城としての全貌が明らかになると思われます。ブログにも・・少し写真を掲載してます。研究者ではないので、詳細はわかりませんが・・。

http://taxitake.exblog.jp/

タケタクさん、追加情報ありがとうございます。

なんと登城道があったんですか!!
気づきませんでした。

もったいないことをしました・・。
でもこのときはまだ佐賀城、吉野ヶ里、久留米城等
いくつかの予定もありかなり厳しい行軍だったんですけどね。

また再訪したいと思います。

[1382] 西富松城 投稿者:ブレイズマン [近畿] 投稿日:2008/03/24(Mon) 00:56
> 間違いかどうかはわかりませんが、同ページ内に
> 書いております書籍にその情報がありました。

 はいはい。

> 日本の中世城館調査報告集成15

 という奴ですね。
 僕も最近こーゆー便利な資料があるとは思っていませんでした。

 ただ単純に「東富松城」より西にあるのはちょっと変ですよね。「東富松城」より東にないと「西富松城」とならないかもしれません。富松神社周辺は東側になりますので、そーゆー意味ではそれっぽいなーと思います。

> また何かわかりましたら教えてくださいませ。

 了解です。

 あ、しかし今思いましたが、ちょっと前まで「ガベノ城」ってどこにあるのですか?と聞いていた奴が、今では「西富松城」で管理人さんに指摘しているのですからねー。

 まー怖いもの知らずというか、無謀というか。

では、では。

ブレイズマンさんこんにちは。

>まー怖いもの知らずというか、無謀というか

気にしないでください。
ここは私自身も素人として皆さんと一緒にお城の話が
できればいいなと思っているだけですので。

そういえば富松神社って富松城の城域とは別に江戸期の
環濠集落として拡張された際に取り込まれたってこと
じゃなかったでしょうか?

また何かわかったら教えてください(ってそればっかりですね(^^;)

調べること多すぎて、今は割り込んで新しいことをする余裕がありませんので、ご容赦を。


[1381] こんにちは 投稿者:MASAYUKI [四国] 投稿日:2008/03/23(Sun) 10:38
本岡さんお久しぶりです。

20日に、丸亀城に行ってきました。

やっぱり石垣がすごいですね。そしてあの坂も疲れますね。

MASAYUKIさん、こんにちは
ものすごく遅い反応でごめんなさい。

ひょっとしてスタンプラリーですか?
丸亀城の石垣はいつ見ても惚れ惚れしますね。

また城からの眺めも最高ですね。
最近は天守にあがることがなくなってきましたが
私もたまに丸亀城に寄ってるんですよ。